「春秋園事件」は、力士の地位向上と大日本相撲協会の体質改善を求めた、首謀者の名前を冠した「天竜・大ノ里事件」とも呼ばれる争議事件です。この時には、脱退によって幕内力士は40名から20名に、十両は全て幕下からの抜擢となりました。

昭和7年(1932年)1月6日、1月場所の番付が発表された翌日の事、東京は大井町にある中華料理店「春秋園」の食事会に、出羽海一門の関取並びに幕下力士1名が集められました。その席上、関脇・天竜三郎と大関・大ノ里萬助は、興行主の大日本相撲協会の改革について訴えたのです。

こうして、中華料理店への立てこもりと労使交渉が始まり、「春秋園事件」或いは「天竜・大ノ里事件」と呼ばれる力士と相撲協会の争議事件が展開されることとなりました。力士側からの要求事項は10項目にものぼり、協会側の春日野(元横綱栃木山)と藤島(元横綱常ノ花)の2年寄が対応にあたりました。

協会に対する要求の内容は、協会の会計制度確立と収支の明確化、興行時間の改正と夏場所の夜間興行化、入場料の値下げと相撲の大衆化、相撲茶屋の撤廃、年寄制度のざ漸次廃止、無駄な人員の整理という6項目です。

また、どちらかというと協会というよりも、力士のための改善という意味での要求内容は、退職金制度の確立、地方巡業制度の根本的改革、力士の収入増による生活の安定、力士協会制度の設立と共済制度の確立という4項目でした。

これらの要求の多くは、現在でも少なからず問題点としてあげられそうな内容に見えます。この事件に関しては、1月場所で小結から大関に昇進した武蔵山の件を恨んで、関脇・天竜が起こしたものとの見方もありますが、彼らは”私情を捨てて”立ち上がったと言っており、要求内容にも理解できるところが多々あるのです。

9日になって、複数回に及ぶ交渉の中で協会側が行った回答内容では決着を見ず、交渉は決裂、東西に20名ずついた幕内力士40名の内、西側力士全員が協会を脱退するという事態となりました。同時に、複数の幕下力士もこれに呼応してしまいます。

12日、協会は14日から始まるはずであった春(1月)場所の開催を無期延期とし、力士との交渉を続けようとします。そんな中、天竜に恨まれたとされる新大関・武蔵山が力士団から脱盟してしまいます。

その後も交渉は思うように進まず、右翼団体が調停に乗り出したり、16日には西前頭筆頭・出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう)を除く協会脱退力士が髷を切り落とすなど、混迷の状況となっていきます。

25日には武蔵山が協会へと帰参するのに対し、翌26日には協会脱退の勧誘を受けた東方幕内力士の多くが、伊勢神宮を参拝するとの名目で名古屋へと向かい、協会脱退の方向性を示したのです。結果的に幕内力士で協会に残ったのは東方11名、西方武蔵山1名という少なさでした。

たった12名となってしまった幕内力士では本場所の開催は到底できるものではなく、1月場所番付での本場所開催は断念するに至ります。その解決策として、新たに2月場所開催のための番付を編成し、幕内は残留12・十両から3・幕下から5の20名、十両は全て幕下から昇進させた20名という体制を取りました。

この争議は結局、力士会の設立・退職金制度の確立で一応鎮静化し、後に会計制度の確立・相撲普及活動の充実・夜間興行の開催なども実現、相撲茶屋についてもずっと後になってから法人化され改善されました。但し、枡席券入手の難しさ・年寄制度・巡業制度については、今も改善を必要としている状態なのです。