大阪相撲でも「龍神事件」という、退職金を巡った紛争が巻き起こります。4大関(上州・大木戸・平錦・大嶋)が主導した騒動の顚末は、東西合わせて35人いた幕内力士が、東西無しの16名に激減してしまうというものでした。

大正12年(1923年)、大阪では東京の「東京相撲協会」に対抗して「大阪相撲協会」があり、1横綱4大関を擁して興行を行っていました。しかし、実力的には東京相撲に劣り、東京相撲との合同興行では力士の戦力差は歴然としていました。

東京相撲との格差に苦慮して、出身地別対抗戦を行うなど興行内容に工夫をこらしてはみるものの、大阪相撲の低迷ぶりは明らかだったのです。そんな状況の中、力士の労働紛争だけは、東京相撲と同様に発生してしまったのです。

東京相撲の三河島事件勃発から4ヶ月、その妥結から2ヶ月ほど経った5月5日、大阪相撲の新番付が発表されました。その4日後の9日夜、横綱・宮城山福松(みやぎやまふくまつ、第29代)を除く、全関取による力士会の代表として力士10名が大阪相撲協会を訪問します。

力士代表者の先頭には、上州山一(じょうしゅうざんはじめ)・大木戸一男(おおきどかずお)・平錦芳次(ひらにしきよしじ)・大嶋佐太郎(おおしまさたろう)の新番付での4大関がいました。

対する協会側には、3代目高田川(元関脇・早瀬川一栄)と11代目岩元(元大関・響矢由太郎)の2年寄の取締がいます。力士会の要求は7項目に渡り、力士養老金(退職金)などについて交渉が開始されました。

協会側の態度は強硬で、力士たちの要求は通らず、彼らは力士のみならず行司まで含めて全員が、堺市大浜公園にある九万楼へと集合します。その後、公園近くにあった龍神遊郭内へと移動し、この擾乱が「龍神事件」と呼ばれるようになるのです。

そんな状況でも本場所は11日に初日を開け、協会としては幕下以下の力士だけで興行を続けたのです。この大阪相撲の労働争議中の相撲興行は、勧進元に13代朝日山・12代千田川のかつての人気力士だった年寄に努めさせたり、協会への同情もあって、意外な盛り上がりを見せます。

初日こそ6割ほどの客入りではあったものの、6日目からは大入りとなり、無事20日の千秋楽を迎えることができたのでした。また、力士会側も一枚岩ではなかったようで、千田川門下の5力士は力士会を離脱して師匠に協力したのです。

争議の初めから唯一参加していなかった横綱・宮城山は、千田川部屋の鉄ヶ濱(元は東京相撲の前頭稲葉嶽)を露払い、千葉ノ浦を太刀持ちとして横綱土俵入りを披露し、大いに本場所を盛り上げました。

労働争議の交渉は官憲・顔役連の仲裁なども入れ、力士会の要求を全面的に呑むところまで行った後、一時的に両者の関係が悪化するなどしながらも、どうにか妥協に漕ぎつけ、31日には盛大な手打ち式が挙行されたのです。

騒動解決後、力士会には千田川部屋力士への不満が燻り続け、堺市での謝恩興行の番付では、会を離脱した千田川部屋5力士を削除してしまいます。そして、これに憤慨した千田川親方は引退を表明し、その弟子たち20数名も断髪引退、協会役員も全員辞職するという事態となりました。

更に、協会側で争議の対応をしていた朝日山親方のところからも2力士が引退、連動するように多くの力士が引退して行きました。こうして5月の番付で東西に幕内35名いた力士は、6月14日の時点で幕内19名にまで激減してしまったのです。

その後6月に発表された番付は、東西の別は無く大関も不在、横綱・関脇・小結が各一人で、幕内総勢16名という、小規模な布陣となったのでした。