昭和の大横綱の一番手とも言える、第35大横綱・双葉山定次(ふたばやまさだじ)は、前頭から始まった怒涛の”69連勝”で、横綱まで上り詰めました。その間、5場所連続の優勝も果たす、快進撃でした。

明治45年(1912年)2月9日、大分県に後に”昭和の大横綱”となる、龝吉(あきよし)定次が生まれます。定次は父の経営する海運業での借金と、母や兄・妹を亡くすなどして、次男の身で一家の家計を支えるため、父の営む海運業を手伝っていました。

元々相撲にはあまり思い入れの無かった定次は、初めて出場した相撲大会で、相手を上から押さえつけて倒すという荒業が新聞紙上を賑わし、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(ふたがわきいち)の世話で、立浪部屋へと入門することとなります。

定次の初土俵は昭和2年(1927年)3月場所、四股名は”大成する人は幼少のときからすぐれている”というたとえである諺「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から、「双葉山」としました。

新弟子時代の双葉山は非常に稽古熱心で、同期の大八洲晃(おおやしまあきら)と朝稽古のための早起きを競って親方から苦情が出たり、兄弟子たちの”かわいがり”という厳しい猛稽古にも動じなかったのでした。

昭和6年(1931年)5月場所で新十両(西5枚目)へと関取への昇進を果たすものの、この場所は3勝8敗と初めて負け越し、翌年1月場所は東十両6枚目に陥落となったのです。ところが、場所前に「春秋園事件」が発生し、大量の力士脱退を受けて行われた2月場所で大抜擢で新入幕となり、西前頭4枚目へと繰上となるのでした。

入幕後の昇進は、その正攻法の取り口が上位にかなわないことから時間がかかります。しかし、船に乗っていた経験が生きて足腰は強く、いくら土俵際まで攻め込まれても逆転してしまうことから、「うっちゃり双葉」と皮肉られることもありました。

どうにか昭和10年(1935年)1月場所で小結に昇進するものの負け越して前頭筆頭へ陥落、蓄膿症の手術を機に体重が増えて取り口が変化し、”後の先を取る”とされる立会いとなりました。

昭和11年(1936年)1月場所6日目、前頭2枚目の双葉山は第32代横綱玉錦に”引き落とし”で負けましたが、翌日7日目には前頭4枚目の瓊ノ浦(たまのうら)に”うっちゃり”で勝利して、ここから未だに破られていない連勝記録に入って行きます。

この場所は玉錦が全勝優勝で、双葉山は9勝2敗でしたが、翌場所(昭和11年5月)は関脇に昇進して11戦全勝で初優勝、新大関となった昭和12年(1937年)1月場所は11銭全勝(優勝)で27連勝目、次の5月場所は13戦全勝(優勝)で横綱昇進を決め、大関を無敗で通過し、40連勝となります。

新横綱の昭和13年(1938年)1月場所で全勝優勝で53連勝とするのですが、この場所9日目の関脇両國との取組は双葉山の”勇み足”と物言いがつき、取り直しで決着すると言う大一番となっています。

続く5月場所の11日目の第33代横綱武蔵山との対戦に勝利し、それまでの二代目谷風(第4代横綱)の63連勝という150年間破られなかった記録を抜きます。そして、この場所も全勝で5場所連続優勝となるのです。

しかし、怒涛の連勝記録は、翌場所(昭和14年1月)4日目、前頭3枚目の安藝ノ海(後の第37代横綱)によって、”外掛け”によって69連勝で止まってしまうのでした。この場所、双葉山は9勝4敗と振るわず、続く5月場所も不調を心配されます。

ところが、初めて15日制で行われた5月場所でも全勝となり、加えて12日目で優勝を決めるという記録も残しているのです。