第44代横綱・栃錦清隆(とちにしききよたか)と第45代横綱・若乃花幹士(わかのはな かんじ)の33回の実戦は、超高額チケットが取引されるほどの、熱狂的な大相撲ブーム「栃若時代」を生み出しました。

大正14年(1925年)1月10日、東京の蛇の目傘を製造する家の次男として、大塚清(後の栃錦)が誕生しました。後に大相撲で「栃若時代」という黄金期を形成することになる、二人の勇者の内の一人です。

「栃若時代」のもう一方の雄・花田勝治(後の初代若乃花)は、昭和3年(1928年)3月16日、東北の北の外れの青森で、リンゴ園農家の1女10男の長男として誕生します。しかし、6年後に破産状態となった花田一家は、北海道室蘭への移住を余儀なくされたのでした。

並外れた体力と体格を持っていた大塚は、近所の八百屋の勧めなどで春日野部屋へと入門し、昭和14年(1939年)1月場所で初土俵を踏むこととなります。四股名は、師匠の現役名「栃木山」と、兄弟子で第26代横綱の大錦卯一郎から一字ずつもらって、「栃錦」としました。

一方、北海道で力仕事をして家計を支えていた花田は、昭和21年(1946年)の二所ノ関一門の地方巡業で、飛び入り参加した相撲大会で力士の数名を倒すという快挙を成し遂げています。そしてこのことがきっかけとなって、花田は二所ノ関部屋の大ノ海(後の11代目花籠親方)の内弟子として入門しました。

栃錦は、親方から”寝る時はエビのように小さくなって”、”飯を食うときは大きな体で”という指導を受け、序二段で一度だけ負越しただけで、昭和19年(1944年)5月場所で十両昇進を果たして、晴れて関取の仲間入りをしました。

しかし、世の中は第二次世界大戦の真っ只中で、戦況が厳しくなってきたことから、栃錦は終戦まで軍隊生活をおくることとなります。大相撲へと復帰できたのは、昭和20年(1945年)11月場所で、十両4枚目格として出場しました。

花田の方はというと、神風・力道山・佐賀ノ花・琴錦など何れ部屋を興そう考える兵たちの中、”二所一門の荒稽古”で力士としての力を上げていきます。ただ、後にプロレスへ転向する力道山の稽古には我慢しきれず、力道山の脛に噛みついたうえそのまま脱走、部屋近くの隅田川に飛び込んだこともありました。

四股名「若ノ花」で踏んだ花田の初土俵は、栃錦が十両に復帰してからちょうど1年後の昭和21年(1946年)11月場所でした。猛稽古のかいもあって、各段を優勝に準じるような成績で駆け上がり、栃錦に遅れること4年ほどの昭和24年(1949年)5月場所で、新十両となり関取の道を歩み出すのです。

新入幕は、栃錦が昭和22年(1947年)6月場所、若ノ花が2年半ほど遅れた昭和25年(1950年)1月場所と、着々と番付を上げていきます。そして、昭和29年(1954年)9月場所後に栃錦は第44代横綱となり、若ノ花から改名していた若乃花はその4年後の1月場所後に第45代横綱となったのです。

この時から「栃若時代」が始まったのですが、二人の実戦は昭和26年(1951年)5月場所から33回に上りました。対戦成績は、「栃若時代」以前では栃錦の14勝9敗でしたが、「栃若時代」に入ると後輩横綱の若乃花が6勝4敗と盛り返します。

栃若の対戦は大人気と呼び、ある時には30万円(2016年時点で200万円相当)の大枚をはたいて、ダフ屋から入場チケットを購入したという観客もあったと語り継がれています。