Month8月 2018

【4連続金星】の大活躍!4横綱を4場所連続撃破した北勝富士

多くの名力士を生み出してきている大相撲では、平成に入ってからも多くの若手が上位を窺っています。その中の一人・北勝富士大輝(ほくとふじだいき)は、4横綱を4場所連続撃破するという、”4連続金星”の大活躍をしています。

平成4年7月15日、中村大輝は埼玉県所沢市に生まれました。後に御嶽海(みたけうみ)・宇良(うら)の平成4年生まれの若手力士と共に、「花のヨン組」と呼ばれることになる後の「北勝富士」のことです。

平成27年3月春場所、中村大輝は「大輝明道」として初土俵を踏みます。これはその当時「中村」という年寄名跡があり本名が名乗れなかったことと、後に四股名とする「北勝富士」という力士が他にいたからです。

翌場所5月の夏場所は、東序ノ口11枚目で6勝1敗の成績として、1場所で序ノ口を通過し、7月名古屋場所では序二段優勝を果たし、続く9月秋場所では三段目優勝を勝ち取り、いずれも7戦全勝で1場所で各段を通過しました。更に、11月九州場所で東幕下25枚目に付け、負け越し無しで幕下を4場所で通過しています。

平成28年7月名古屋場所、大輝は西十両13枚目に昇進し、次の9月秋場所では十両優勝を果たします。この十両の地位もわずか2場所で通過し、11月九州場所では「北勝富士」として、西前頭11枚目の土俵を務めたのでした。

この年の10月14日の秋巡業豊橋場所の朝稽古でのこと、当時大関だった照ノ富士の指名で”ぶつかり稽古”をした北勝富士は、通常は5分ほどで息が上がってしまうところ、13分にも渡って鍛えてもらい、終わってからは完全にグロッキーとなって、暫くは立ち上がれなかったと言います。

平成29年1月初場所、北勝富士は3日目に妙義龍を”押し倒し”で破ります。妙義龍は日体大の6学年先輩で、憧れの存在でもあって目標・理想とする力士だったことから、これで恩返しをしたということになるのです。

7月名古屋場所、第71代横綱鶴竜を破り、初めて金星(平幕=前頭が横綱に勝つこと)を勝ち取りました。取組は3日目のことで、決まり手は”押し出し”、勝ち残りで土俵下に座っている時には、何が何だか分からず目頭が熱くなったといいます。

続く9月秋場所では、第70代横綱日馬富士を破り、2場所連続金星を手にします。この場所では、左手首の負傷というアクシデントに見舞われ、7勝8敗と負け越しとなってはしまいますが、本人として”その中でよく7勝できたな”という思いだったのです。

そのまた次の11月九州場所では、第72代横綱稀勢の里を破り、3場所連続金星を上げ、初の三賞・技能賞を受賞しました。横綱との対戦は7日目でしたが、”寄り切り”という真向からの取り口で勝利し、”うれし涙は3個目だから、いいですよ”とコメントしています。

平成30年1月初場所、北勝富士は東前頭筆頭まで昇進しました。そして、第69代横綱白鵬も破り、4場所連続金星という輝かしい記録を打ち立てたのです。

但し、この場所の成績は白鵬への勝利以外にはあまりパッとしたところが無く、4勝11敗という初めての2桁黒星という結果でした。しかし、力量に優れた力士には運も味方するのか、翌場所3月春場所の番付では思ったほど降格はせず、西前頭6枚目での奮闘が見られるのです。

角界の闇の部分が噴出した数々の【不祥事】麻薬・賭博・八百長

21世紀に入って大相撲は、角界の闇の部分が噴出して、数々の”不祥事”が相次ぎました。大麻問題の責任を取って協会理事長が辞任したり、野球賭博問題や八百長問題がぞくぞくと発覚して、力士の本業の相撲に影響を及ぼしたのです。

大相撲の世界では、平成時代(1989年~)初期のハワイ出身力士の活躍も影を潜め、2000年代(平成12年~)も半ばになると今度はモンゴル出身力士が台頭し始めます。

第68代横綱・朝青龍(あさしょうりゅう)の年間全場所優勝、第69代横綱・白鵬(はくほう)の63連勝、続く第70・71代横綱も日馬富士(はるまふじ)・鶴竜(かくりゅう)といった具合です。

しかし、そんな外国勢の力を借りた相撲界に、暗雲が立ち込め始めるのです。始まりは、平成20年(2008年)の「大相撲力士大麻問題」でした。

6月24日のこと、ロシア出身の幕内力士・若ノ鵬(わかのほう)が、東京都墨田区錦糸町の路上で落とした財布の中に入っていたロシア製のたばこから大麻成分が検出されました。若ノ鵬は8月18日に逮捕され、所属する間垣部屋と自宅からは吸引パイプなども見つかり、21日の緊急理事会で解雇処分となります。

若ノ鵬の師匠である間垣親方(第56代横綱2代目若乃花)は、事件の責任を取って協会理事を辞職、若ノ鵬は解雇処分無効の訴訟を行なうものの、結局それは認められず、翌年2月にロシアへと帰国しました。

この事件には、更に関連した騒動が持ち上がっています。それは、若ノ鵬逮捕の翌月2日、抜き打ちで簡易的な尿検査を行なった際に、同じロシア出身で大嶽部屋の露鵬(ろほう)と北の湖部屋の白露山(はくろざん)にも陽性反応が出たのです。

結局、露鵬と白露山も訴訟にまで持ち込んだものの解雇、大嶽親方(元関脇貴闘力)は委員の身分からただの年寄に降格、北の湖親方(第55代横綱)は協会理事長を辞任することとなります。

大麻問題は、ロシア出身力士に限った話ではありません。平成21年(2009年)1月30日には、兵庫県出身の若麒麟が大麻所持で逮捕され、翌日付で引退届を提出、2月20日に起訴され、4月22日に有罪が確定しています。

平成22年(2010年)5月20日には、新たなる角界の不祥事として、野球賭博問題が取りざたされることととなります。

週刊誌記事によれば、大関琴光喜が暴力団が胴元のプロ野球賭博に関わっているとし、最終的に現役力士・親方・床山(力士の髷を結う職人)・元力士・部屋マネジャー・会社役員にまで広がっていることがわかりました。

協会では琴光喜と大嶽親方を解雇、当時前頭の雅山・豊ノ島・豪栄道・豊響・若荒雄・隠岐の海、十両の普天王・千代白鵬・清瀬海・大道、幕下以下の力士複数、親方の時津風・武蔵川・九重・陸奥・八角・阿武松・佐渡ヶ嶽・春日野・宮城野・木瀬など錚々たるメンバーを謹慎処分としたのです。

平成21年(2011年)2月2日、今度は八百長問題が表面化してきます。前年に発覚した野球賭博事件の捜査の途上、警視庁が押収した力士の携帯電話のデータの中から、金で本場所の白星(取組の勝利)を売買するやり取りが見つかったのです。

この問題を受けて、3月の春場所は中止となり、5月の夏場所は「5月技量審査場所」に変更し、無料公開で優勝額・外部表彰辞退・懸賞金辞退・着物への広告自粛・NHK地上波TV・ラジオ中継未実施・相撲案内所(相撲茶屋)休止・アルコール販売と持込禁止という処置となりました。

テレビCMでも大人気となった【初の外国人関取】高見山

”初の外国人関取”となった高見山大五郎(たかみやまだいごろう)は、多くのテレビCMに登場し、テレビドラマにも出演するなど大人気となりました。更に、”ジェシー”の愛称で親しまれ、その名を付けたレコードまで発売しています。

1944年(昭和19年)6月16日、まだ正式なアメリカの州にはなっていなかったハワイ準州のマウイ島に、ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルアは誕生しました。この日、アメリカ軍が中国大陸から北九州への初めての空襲を仕掛けていて、太平洋戦争の真っ只中にありました。

青少年時代のジェシーは、砲丸投げなどの投擲競技を経験したのちアメリカンフットボールに転向し、その体力・体格を作り上げていきます。高校時代のある日、交通事故にあってしまったジェシーは、その後1年もの間歩けなくなるという不幸に見舞われ、後遺症も残ってしまいました。

昭和39年(1964年)、ジェシーは5年間は衣食住を保障するとの約束で、4代目高砂親方(第39代横綱・前田山英五郎)から大相撲へとスカウトされ、2月22日に来日しました。南国のハワイで育ったジェシーは、羽田空港に降り立って初めての冬の寒さを体験し、”間違ってシベリアに来てしまった”と震え上がったと言います。

初土俵は昭和39年(1964年)3月の大坂場所での前相撲で、四股名は本名のまま「ジェシー」でした。翌場所5月の夏場所からは、四股名を初代高砂親方(高砂浦五郎)と、同部屋で初の優勝力士である髙見山酉之助に因んで、「高見山大五郎」としています。

高見山は、昭和39年の夏場所は西序ノ口11枚目で6勝1敗で優勝し、翌場所7月の名古屋場所では東序二段71枚目へ昇進、この場所は7戦全勝でやはり優勝、続く9月の秋場所では優勝とまでは行かなかったものの、5勝2敗の好成績で、三度たったの一場所で上位の段へと昇進を決めました。

ただ、入門から1年経ったときのこと、アメリカ人である高見山に力士生命の危機がやって来ます。その頃には10年にもなっていたベトナム戦争のため、徴兵検査を受けることとなったのですが、幸いにも高見山の当時160キロという巨漢が不合格の理由となりました。

「外国人」として注目を集めて、ここまで大活躍を見せていた高見山も、幕下ではようやくそれも影を潜め、相撲の成績も時々負越すこともあって、14場所を幕下で過ごすこととなります。そして、昭和42年(1967年)3月の春場所で新十両となり、初の外国人関取となったのです。

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高見山人気の下地には、彼の日本人的な考え方があるのでしょう。十両昇進と同時に日本永住を決意し、好きな芸能人は勝新太郎、タイプの女性は園まり・吉永小百合で、ブリジッド・バルドーやエリザベス・テイラーは嫌いだったといいます。

その人気で多くのCMに出演し、師匠からは”CM横綱”と呼ばれたといいます。最も有名なCMと言えば、「マルハッチ!」・「二倍二倍!二枚二枚!」というものでしょう。これが子供から大人まで広がり、このCMセリフの声真似は高見山の物まねの定番となりました。

昭和47年(1972年)には、テレビドラマ「変身忍者 嵐」にゲスト出演し、昭和52年と54年には「スーパー・ジェシー」と「ジェシー・ザ・スーパーマン」というレコードを発売もしています。

そして、幕内で前頭を上下していた昭和55年(1980年)に日本国籍を取得し、夫人の姓と四股名から日本名(本名)を「渡辺大五郎」とし、昭和59年(1984年)5月の夏場所をもって現役を引退します。最高位は、昭和52年(1977年)11月の九州場所での東張出関脇でした。

超高額チケットが取引された大相撲ブーム【栃若時代】の熱狂

第44代横綱・栃錦清隆(とちにしききよたか)と第45代横綱・若乃花幹士(わかのはな かんじ)の33回の実戦は、超高額チケットが取引されるほどの、熱狂的な大相撲ブーム「栃若時代」を生み出しました。

大正14年(1925年)1月10日、東京の蛇の目傘を製造する家の次男として、大塚清(後の栃錦)が誕生しました。後に大相撲で「栃若時代」という黄金期を形成することになる、二人の勇者の内の一人です。

「栃若時代」のもう一方の雄・花田勝治(後の初代若乃花)は、昭和3年(1928年)3月16日、東北の北の外れの青森で、リンゴ園農家の1女10男の長男として誕生します。しかし、6年後に破産状態となった花田一家は、北海道室蘭への移住を余儀なくされたのでした。

並外れた体力と体格を持っていた大塚は、近所の八百屋の勧めなどで春日野部屋へと入門し、昭和14年(1939年)1月場所で初土俵を踏むこととなります。四股名は、師匠の現役名「栃木山」と、兄弟子で第26代横綱の大錦卯一郎から一字ずつもらって、「栃錦」としました。

一方、北海道で力仕事をして家計を支えていた花田は、昭和21年(1946年)の二所ノ関一門の地方巡業で、飛び入り参加した相撲大会で力士の数名を倒すという快挙を成し遂げています。そしてこのことがきっかけとなって、花田は二所ノ関部屋の大ノ海(後の11代目花籠親方)の内弟子として入門しました。

栃錦は、親方から”寝る時はエビのように小さくなって”、”飯を食うときは大きな体で”という指導を受け、序二段で一度だけ負越しただけで、昭和19年(1944年)5月場所で十両昇進を果たして、晴れて関取の仲間入りをしました。

しかし、世の中は第二次世界大戦の真っ只中で、戦況が厳しくなってきたことから、栃錦は終戦まで軍隊生活をおくることとなります。大相撲へと復帰できたのは、昭和20年(1945年)11月場所で、十両4枚目格として出場しました。

花田の方はというと、神風・力道山・佐賀ノ花・琴錦など何れ部屋を興そう考える兵たちの中、”二所一門の荒稽古”で力士としての力を上げていきます。ただ、後にプロレスへ転向する力道山の稽古には我慢しきれず、力道山の脛に噛みついたうえそのまま脱走、部屋近くの隅田川に飛び込んだこともありました。

四股名「若ノ花」で踏んだ花田の初土俵は、栃錦が十両に復帰してからちょうど1年後の昭和21年(1946年)11月場所でした。猛稽古のかいもあって、各段を優勝に準じるような成績で駆け上がり、栃錦に遅れること4年ほどの昭和24年(1949年)5月場所で、新十両となり関取の道を歩み出すのです。

新入幕は、栃錦が昭和22年(1947年)6月場所、若ノ花が2年半ほど遅れた昭和25年(1950年)1月場所と、着々と番付を上げていきます。そして、昭和29年(1954年)9月場所後に栃錦は第44代横綱となり、若ノ花から改名していた若乃花はその4年後の1月場所後に第45代横綱となったのです。

この時から「栃若時代」が始まったのですが、二人の実戦は昭和26年(1951年)5月場所から33回に上りました。対戦成績は、「栃若時代」以前では栃錦の14勝9敗でしたが、「栃若時代」に入ると後輩横綱の若乃花が6勝4敗と盛り返します。

栃若の対戦は大人気と呼び、ある時には30万円(2016年時点で200万円相当)の大枚をはたいて、ダフ屋から入場チケットを購入したという観客もあったと語り継がれています。

【横綱審議委員会】は横綱の格下げも議論された中で生れた!

「横綱審議委員会」誕生のきっかけは、3横綱が途中休場するという不甲斐ない状況に対して、横綱からの格下げも議論されたことにあります。それまで免許制だった横綱の地位を、より公正な形で決定しようという方針の中で生れたのです。

相撲の神様・野見宿禰(のみのすくね)を祖先に持つ九条家は、鎌倉時代から朝廷(天皇を君主とする官僚組織を持つ政府)主催の相撲節会(皇室行事)で、相撲司(すもうのつかさ)としてこれを取り仕切っていました。

一方、もう少し遡った奈良時代には力士で行司も務めた志賀清林(しがのせいりん)という、相撲技・礼法・禁じ手などの制定に関わった人物がいたのですが、その子孫が断絶した後、志賀家の故実・伝書を吉田家次が受け継ぎます。

吉田家は京都で皇室に繋がる二条家に奉公し、相撲節会で行事官を務め、相撲の宗家として代々「追風」を号するようになります。そして、吉田司家当主として13代目を引き継いだ吉田追風は、熊本藩主の細川氏に仕えて江戸で積極的な相撲興行を展開するようになりました。

寛政元年(1789年)11月、19世吉田追風は初めて「横綱」という力士最高位の称号を考案し、二代目谷風と小野川にその免許を授与します。これ以来、五条司家の相撲司としての権威は失墜していくこととなります。

文政6年(1823年)になって、五条司家では吉田司家に先駆け、柏戸利助(かしわどりすけ)と4代目玉垣額之助に横綱免許を授与するという逆襲に打って出るのですが、2力士共にこれを辞退してしまいます。

こんな五条司家の動きに危機感を抱いた吉田司家では、江戸幕府に働きかけて、文政10年(1827年)7月になって、「江戸相撲方取締」を拝命するに至り、相撲司家としての権威を固めていきました。

このようにして代々、相撲司家としての吉田司家からの免許授与による横綱への昇進という形式だったものが、抜群の品位と力量を要求される横綱の不甲斐ない様が露呈する段になって、疑義が持たれるようになっていきます。

それは、昭和25年(1950年)1月場所のことです。この場所は、東正横綱羽黒山(第36代)・西正横綱東富士(第40代)・東張出横綱照國(第38代)の3横綱がいたのですが、その3横綱全てが場所の途中から休場してしまいます。

東富士は、2日目に東前頭2枚目の神風に敗れ、翌日は対戦を組まれていた東前頭筆頭の出羽錦に不戦敗となり、4日目から6日目は休場、7日目から再出場するものの、6勝6敗3休で場所を終了します。

羽黒山は、4日目に東富士と同じく神風に敗れ、翌日はこれまた出羽錦に不戦敗となり、6日目から10日目は休場、11日目から千秋楽まで再出場するものの、6勝4敗4休と東富士同様の低レベルの成績で場所を終了してしまいます。

照國に至っては、2日目に東前頭3枚目の吉葉山に敗れ、翌日は西前頭2枚目の琴錦に勝ったものの、4日目から休場、4日目は東小結の羽嶋山に不戦敗となり、最終的には2勝2敗11休という惨憺たる成績で場所を終わったのでした。

こんな不甲斐ない横綱たちのことが問題となり、相撲協会は”2場所連続休場・負越しの場合は大関に転落”との決定を発表します。ところが、こんな横綱を生み出した協会が悪いとの世間からの反発が出て、横綱転落の決定は取り消しとなるのでした。

結局、横綱の権威を守るためにも、吉田司家による免許授与ではなく、相撲に造詣が深い有識者による横綱の推薦制へと改善しようと、「横綱審議委員会」を発足することになりました。初代委員長は元伯爵で貴族院議員の酒井忠正氏で、横綱転落議論の巻き起こった年の4月21日のことでした。

初の【優勝決定戦】4力士の争いはやはり横綱が強かった!

大相撲初の”優勝決定戦”は、4力士(横綱・2大関・前頭)の争いとなり、最終勝者は第36代横綱・羽黒山政司(はぐろやままさじ)で、やはり横綱が強かったという結果です。

現在の大相撲での優勝は、各段における成績最優秀者としていて、本場所の1日1番組まれる取組(本割)の成績が同じであれば、本割とは別に対戦が組まれ、最優秀者を決めています。これが、大相撲における優勝決定戦で、昭和22年(1947年)6月場所から実施されました。

それまでは同じ成績となった場合には、番付上位の力士を優勝としており、上位力士の優勝が当然で面白みに欠けたり、下位の力士が上位と当らないまま優勝してしまう可能性があるという問題も孕んでいました。

史上初めて行われた幕内の優勝決定戦は、まだ東西で団体優勝を争う「東西制」が行われていたこともあって、9勝1敗で4力士が並ぶと言う混戦となりました。その力士は、第36代横綱羽黒山・大関前田山(後の第39代横綱)・大関東富士(後の第40代横綱)・前頭8枚目力道山(後の人気プロレスラー)です。

4人の場合の優勝決定戦はトーナメント方式で行われ、東富士と力道山は1回戦で敗れてしまいます。最終決戦は横綱と大関の一騎打ちで、結局は番付どおり横綱羽黒山が勝利して優勝となるのですが、敗れた前田山のこの後横綱へと昇進を果たしました。

2度目の優勝決定戦は、昭和25年(1948年)10月場所に行われ、2度目の挑戦の大関東富士と関脇増位山(現在歌手の人とは別人)の2人で行われました。この時の結果は、番付下位の増位山が勝利し優勝、大いに優勝決定戦制度を成功させ、敗れた東富士もこの後横綱へと昇進するのでした。

3度目の優勝決定戦は、昭和26年(1949年)5月場所に行われ、本割では行われることの無い同部屋対決が初めて実現しました。結果は、大関に昇進していた増位山が番付どおり勝利し優勝し、敗れた番付下位の前頭17枚目羽島山(最高位関脇)は敢闘賞を受賞しました。

8度目の優勝決定戦は、昭和33年(1956年)3月場所に行われ、初めての3人による”巴戦”となりました。結果は、関脇朝汐(三代目朝潮太郎)が、大関若ノ花(後の第45代横綱若乃花)と前頭15枚目若羽黒(最高位大関)を下して優勝します。

50回目の優勝決定戦は、平成7年(1995年)11月場所に行われ、史上初の同部屋兄弟力士の対戦が実現しました。勝利したのは大関若乃花(後の第65代横綱)で、弟の第65代横綱貴乃花を負かして優勝しました。

52回目の優勝決定戦は大混戦となり、平成8年(1996年)11月場所に、5人の力士によって戦われました。優勝者は大関武蔵丸(後の第67代横綱)で、敗退したのは第64代横綱曙・大関若乃花(後の第65代横綱)・大関貴ノ浪・関脇魁皇(最高位大関)の4力士でした。

幕内の優勝決定戦は、平成29年(2017年)までに77回行なわれ、多くの大相撲ファンを楽しませています。

昭和の大横綱の一番手・双葉山の怒涛の【69連勝】

昭和の大横綱の一番手とも言える、第35大横綱・双葉山定次(ふたばやまさだじ)は、前頭から始まった怒涛の”69連勝”で、横綱まで上り詰めました。その間、5場所連続の優勝も果たす、快進撃でした。

明治45年(1912年)2月9日、大分県に後に”昭和の大横綱”となる、龝吉(あきよし)定次が生まれます。定次は父の経営する海運業での借金と、母や兄・妹を亡くすなどして、次男の身で一家の家計を支えるため、父の営む海運業を手伝っていました。

元々相撲にはあまり思い入れの無かった定次は、初めて出場した相撲大会で、相手を上から押さえつけて倒すという荒業が新聞紙上を賑わし、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(ふたがわきいち)の世話で、立浪部屋へと入門することとなります。

定次の初土俵は昭和2年(1927年)3月場所、四股名は”大成する人は幼少のときからすぐれている”というたとえである諺「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」から、「双葉山」としました。

新弟子時代の双葉山は非常に稽古熱心で、同期の大八洲晃(おおやしまあきら)と朝稽古のための早起きを競って親方から苦情が出たり、兄弟子たちの”かわいがり”という厳しい猛稽古にも動じなかったのでした。

昭和6年(1931年)5月場所で新十両(西5枚目)へと関取への昇進を果たすものの、この場所は3勝8敗と初めて負け越し、翌年1月場所は東十両6枚目に陥落となったのです。ところが、場所前に「春秋園事件」が発生し、大量の力士脱退を受けて行われた2月場所で大抜擢で新入幕となり、西前頭4枚目へと繰上となるのでした。

入幕後の昇進は、その正攻法の取り口が上位にかなわないことから時間がかかります。しかし、船に乗っていた経験が生きて足腰は強く、いくら土俵際まで攻め込まれても逆転してしまうことから、「うっちゃり双葉」と皮肉られることもありました。

どうにか昭和10年(1935年)1月場所で小結に昇進するものの負け越して前頭筆頭へ陥落、蓄膿症の手術を機に体重が増えて取り口が変化し、”後の先を取る”とされる立会いとなりました。

昭和11年(1936年)1月場所6日目、前頭2枚目の双葉山は第32代横綱玉錦に”引き落とし”で負けましたが、翌日7日目には前頭4枚目の瓊ノ浦(たまのうら)に”うっちゃり”で勝利して、ここから未だに破られていない連勝記録に入って行きます。

この場所は玉錦が全勝優勝で、双葉山は9勝2敗でしたが、翌場所(昭和11年5月)は関脇に昇進して11戦全勝で初優勝、新大関となった昭和12年(1937年)1月場所は11銭全勝(優勝)で27連勝目、次の5月場所は13戦全勝(優勝)で横綱昇進を決め、大関を無敗で通過し、40連勝となります。

新横綱の昭和13年(1938年)1月場所で全勝優勝で53連勝とするのですが、この場所9日目の関脇両國との取組は双葉山の”勇み足”と物言いがつき、取り直しで決着すると言う大一番となっています。

続く5月場所の11日目の第33代横綱武蔵山との対戦に勝利し、それまでの二代目谷風(第4代横綱)の63連勝という150年間破られなかった記録を抜きます。そして、この場所も全勝で5場所連続優勝となるのです。

しかし、怒涛の連勝記録は、翌場所(昭和14年1月)4日目、前頭3枚目の安藝ノ海(後の第37代横綱)によって、”外掛け”によって69連勝で止まってしまうのでした。この場所、双葉山は9勝4敗と振るわず、続く5月場所も不調を心配されます。

ところが、初めて15日制で行われた5月場所でも全勝となり、加えて12日目で優勝を決めるという記録も残しているのです。

力士の地位向上と協会の体質改善を求めた争議【春秋園事件】

「春秋園事件」は、力士の地位向上と大日本相撲協会の体質改善を求めた、首謀者の名前を冠した「天竜・大ノ里事件」とも呼ばれる争議事件です。この時には、脱退によって幕内力士は40名から20名に、十両は全て幕下からの抜擢となりました。

昭和7年(1932年)1月6日、1月場所の番付が発表された翌日の事、東京は大井町にある中華料理店「春秋園」の食事会に、出羽海一門の関取並びに幕下力士1名が集められました。その席上、関脇・天竜三郎と大関・大ノ里萬助は、興行主の大日本相撲協会の改革について訴えたのです。

こうして、中華料理店への立てこもりと労使交渉が始まり、「春秋園事件」或いは「天竜・大ノ里事件」と呼ばれる力士と相撲協会の争議事件が展開されることとなりました。力士側からの要求事項は10項目にものぼり、協会側の春日野(元横綱栃木山)と藤島(元横綱常ノ花)の2年寄が対応にあたりました。

協会に対する要求の内容は、協会の会計制度確立と収支の明確化、興行時間の改正と夏場所の夜間興行化、入場料の値下げと相撲の大衆化、相撲茶屋の撤廃、年寄制度のざ漸次廃止、無駄な人員の整理という6項目です。

また、どちらかというと協会というよりも、力士のための改善という意味での要求内容は、退職金制度の確立、地方巡業制度の根本的改革、力士の収入増による生活の安定、力士協会制度の設立と共済制度の確立という4項目でした。

これらの要求の多くは、現在でも少なからず問題点としてあげられそうな内容に見えます。この事件に関しては、1月場所で小結から大関に昇進した武蔵山の件を恨んで、関脇・天竜が起こしたものとの見方もありますが、彼らは”私情を捨てて”立ち上がったと言っており、要求内容にも理解できるところが多々あるのです。

9日になって、複数回に及ぶ交渉の中で協会側が行った回答内容では決着を見ず、交渉は決裂、東西に20名ずついた幕内力士40名の内、西側力士全員が協会を脱退するという事態となりました。同時に、複数の幕下力士もこれに呼応してしまいます。

12日、協会は14日から始まるはずであった春(1月)場所の開催を無期延期とし、力士との交渉を続けようとします。そんな中、天竜に恨まれたとされる新大関・武蔵山が力士団から脱盟してしまいます。

その後も交渉は思うように進まず、右翼団体が調停に乗り出したり、16日には西前頭筆頭・出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけぶんじろう)を除く協会脱退力士が髷を切り落とすなど、混迷の状況となっていきます。

25日には武蔵山が協会へと帰参するのに対し、翌26日には協会脱退の勧誘を受けた東方幕内力士の多くが、伊勢神宮を参拝するとの名目で名古屋へと向かい、協会脱退の方向性を示したのです。結果的に幕内力士で協会に残ったのは東方11名、西方武蔵山1名という少なさでした。

たった12名となってしまった幕内力士では本場所の開催は到底できるものではなく、1月場所番付での本場所開催は断念するに至ります。その解決策として、新たに2月場所開催のための番付を編成し、幕内は残留12・十両から3・幕下から5の20名、十両は全て幕下から昇進させた20名という体制を取りました。

この争議は結局、力士会の設立・退職金制度の確立で一応鎮静化し、後に会計制度の確立・相撲普及活動の充実・夜間興行の開催なども実現、相撲茶屋についてもずっと後になってから法人化され改善されました。但し、枡席券入手の難しさ・年寄制度・巡業制度については、今も改善を必要としている状態なのです。

4大関が主導した大阪相撲の退職金紛争【龍神事件】の顚末

大阪相撲でも「龍神事件」という、退職金を巡った紛争が巻き起こります。4大関(上州・大木戸・平錦・大嶋)が主導した騒動の顚末は、東西合わせて35人いた幕内力士が、東西無しの16名に激減してしまうというものでした。

大正12年(1923年)、大阪では東京の「東京相撲協会」に対抗して「大阪相撲協会」があり、1横綱4大関を擁して興行を行っていました。しかし、実力的には東京相撲に劣り、東京相撲との合同興行では力士の戦力差は歴然としていました。

東京相撲との格差に苦慮して、出身地別対抗戦を行うなど興行内容に工夫をこらしてはみるものの、大阪相撲の低迷ぶりは明らかだったのです。そんな状況の中、力士の労働紛争だけは、東京相撲と同様に発生してしまったのです。

東京相撲の三河島事件勃発から4ヶ月、その妥結から2ヶ月ほど経った5月5日、大阪相撲の新番付が発表されました。その4日後の9日夜、横綱・宮城山福松(みやぎやまふくまつ、第29代)を除く、全関取による力士会の代表として力士10名が大阪相撲協会を訪問します。

力士代表者の先頭には、上州山一(じょうしゅうざんはじめ)・大木戸一男(おおきどかずお)・平錦芳次(ひらにしきよしじ)・大嶋佐太郎(おおしまさたろう)の新番付での4大関がいました。

対する協会側には、3代目高田川(元関脇・早瀬川一栄)と11代目岩元(元大関・響矢由太郎)の2年寄の取締がいます。力士会の要求は7項目に渡り、力士養老金(退職金)などについて交渉が開始されました。

協会側の態度は強硬で、力士たちの要求は通らず、彼らは力士のみならず行司まで含めて全員が、堺市大浜公園にある九万楼へと集合します。その後、公園近くにあった龍神遊郭内へと移動し、この擾乱が「龍神事件」と呼ばれるようになるのです。

そんな状況でも本場所は11日に初日を開け、協会としては幕下以下の力士だけで興行を続けたのです。この大阪相撲の労働争議中の相撲興行は、勧進元に13代朝日山・12代千田川のかつての人気力士だった年寄に努めさせたり、協会への同情もあって、意外な盛り上がりを見せます。

初日こそ6割ほどの客入りではあったものの、6日目からは大入りとなり、無事20日の千秋楽を迎えることができたのでした。また、力士会側も一枚岩ではなかったようで、千田川門下の5力士は力士会を離脱して師匠に協力したのです。

争議の初めから唯一参加していなかった横綱・宮城山は、千田川部屋の鉄ヶ濱(元は東京相撲の前頭稲葉嶽)を露払い、千葉ノ浦を太刀持ちとして横綱土俵入りを披露し、大いに本場所を盛り上げました。

労働争議の交渉は官憲・顔役連の仲裁なども入れ、力士会の要求を全面的に呑むところまで行った後、一時的に両者の関係が悪化するなどしながらも、どうにか妥協に漕ぎつけ、31日には盛大な手打ち式が挙行されたのです。

騒動解決後、力士会には千田川部屋力士への不満が燻り続け、堺市での謝恩興行の番付では、会を離脱した千田川部屋5力士を削除してしまいます。そして、これに憤慨した千田川親方は引退を表明し、その弟子たち20数名も断髪引退、協会役員も全員辞職するという事態となりました。

更に、協会側で争議の対応をしていた朝日山親方のところからも2力士が引退、連動するように多くの力士が引退して行きました。こうして5月の番付で東西に幕内35名いた力士は、6月14日の時点で幕内19名にまで激減してしまったのです。

その後6月に発表された番付は、東西の別は無く大関も不在、横綱・関脇・小結が各一人で、幕内総勢16名という、小規模な布陣となったのでした。

力士も労働者?退職金倍増要求で勃発した【三河島事件】

大相撲の力士も労働者ということなのか、東京相撲では力士の退職金倍増要求で、「三河島事件」という騒擾事件が勃発したことがあります。力士側は関脇・太刀光電右エ門(たちひかりでんえもん)らが代表となり、大日本相撲協会と対峙したのです。

大正12年(1923年)1月9日、力士生活の向上のため力士らが協会へ提言をする組織「力士会」が、力士養老金(退職金)の倍増を協会へと要求しました。大日本相撲協会としてはこの要求を却下するのですが、納得しない関脇以下の力士たちは、東京三河島の向上に立てこもって、その場所をボイコットしたのです。

11日、春場所開催に不安を募らせる幕下力士が、年寄・浅香山(元前頭八嶌山平八郎=やしまやまへいはちろう)と年寄・千賀ノ浦(元関脇綾川五郎次=あやがわごろうじ)に、”明日の相撲は本場所であるか花相撲であるか”と質問をしたと言います。

この時の年寄の答えは、”花相撲ではない。立派な本場所で諸君たちは大事な中堅力士である”というものでした。そのようなやり取りがあって、12日に協会側はボイコットに参加していない力士だけでの春場所開催を強行するのです。

この時の協会側の関取は、第26代横綱・大錦卯一郎(おおにしきういちろう)、第27代横綱・栃木山守也(とちぎやま もりや)以下、わずかに7名だけでした。関取の数が少なすぎるため、春場所は関取の取組は行わず、横綱と大関は土俵入りのみとし、関脇以下の関取は不出場としました。

つまり、観覧できる相撲は幕下以下の下位力士によるものだけであったため、結局は興行の行き詰まりを見るのでした。

どうにか興行を成り立たせたい協会側は、横綱・大関5名に最高位の行事「立行司」である木村庄之助(きむらしょうのすけ)・式守伊之助(しきもりいのすけ)の2名を加えた計7名で、立てこもる力士たちとの調停にあたらせます。

しかし、太刀光ら8名の力士代表たちの主張とは相いれず、調停は失敗してしまいます。その後、警視総監の赤池濃(あかいけあつし)が調停を担当し、警視総監に結論を一任するという形で、なんとか春場所の開催ができることとなりました。

18日の深夜に警視庁で手打ち式が行われたのですが、横綱大錦は騒動の鎮静化を見たうえで、力士の証である自分の髷を切って、廃業によって責任をとってしまうのでした。

この大錦という横綱は非常に真面目な性格の人物で、稽古熱心で”頭脳で取る”と言われるほど合理的な取り口の力士でした。葉巻を吸う喫煙者ではあったものの、酒・女などの遊びはせず、年寄の権威や情の入った相撲などに批判的な、曲がったことが嫌いを絵に描いたような人だったのです。

そのためか、三河島事件で責任を取って力士を辞めた後は角界には残らず、築地で「細川旅館」を経営し、早稲田大学政治経済学部へ入学、大学卒業後には報知新聞で相撲評論家をやったり、武道家中山博道の道場「有信館」へと入門し、剣道を学んだりしたのでした。

どうにか、大いに混乱した騒動も決着し、1週間の稽古日を設けた後、1月26日を「返り初日」として春場所は開催されました。なお、この場所の初日の横綱土俵入りは前代未聞の事態となり、横綱土俵入りの従者を同じ横綱の常ノ花と栃木山が務めるということになったのでした。

最終的な力士側の要求に対しては、3月6日に妥結し、退職金の増額分については、それまでの1場所10日の興行日を11日として、その1日の増収分をあてることとしました。

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