初代小錦八十吉(こにしきやそきち)は、地方巡業へ向かう途中でお腹が空いたものの無一文で、地蔵堂の前にあったお金を出世払いで拝借したという面白い力士です。色白で童顔の彼は、錦絵や織物などの今でいうグッズが飛ぶように売れた人気者でした。

慶応2年10月15日(1866年11月21日)、上総国(現在の千葉県)の料理屋「岩城屋」の主人に子供が生まれました。その子の名は岩井八十吉で、父親は土地相撲で「岩城川」という四股名で大関まで務めた人でした。

息子の八十吉をどうしても力士にしたいものだと考えていた元大関岩城川は、明治14年(1881年)のある日、佐倉(千葉県北部)に巡業に来ていた土地相撲の仲間の高見山宗五郎(たかみやまそうごろう・当時の四股名は響矢)に頼み込んで、高砂部屋へと入門させます。

ところが大相撲の部屋での稽古は過酷なもので、八十吉はその厳しさに耐えられずに故郷に逃げ帰ってしまいます。しかし、逃げ帰った自分を叱咤激励する父の姿に、八十吉は再び大相撲へ挑戦する決意をするのでした。

明治16年(1883年)5月場所で四股名「小錦」として初土俵を踏んだ八十吉ですが、その夏、東京の部屋から栃木県まで、巡業のために歩いて向かうことになりました。彼の体格は168センチ・143キロ・BMI50.47と言われており、歩くには股擦れが酷くて、痛みのために同部屋力士たちからどんどん遅れていきます。

そして、お腹が空いてきたものの、出がけの早朝に小遣い銭を餅を買うのに使ってしまったため、全くの無一文です。更に仲間にも置いて行かれて、お金を借りることもできないのです。

途方に暮れた小錦は、やがて地蔵堂の前にお金が供えられているのを見つけます。空腹で我慢しきれない小錦は、地蔵堂に手を合わせて、昇進して倍返しすると出世払いを約束して、お賽銭を拝借したのでした。

地蔵堂のお金を握りしめた小錦は、そのお金で近くにあった駄菓子屋で煎餅を買って食べ、まだ足りなかったのか桶の水をがぶ飲みするという有様です。それでもまだ空腹は続いたのか、勝手に畑に入ってトウモロコシを食べて、今度は小川の水を飲んだり、途中の茶店の老人から麦飯を御馳走にもなったのでした。

明治19年(1888年)5月場所に小錦は新入幕を果たし、そこから4年間で39連勝と7回の優勝相当成績を上げるという強さを発揮しました。年齢的には21~24才という、正に脂の乗り切った時期のことでした。

入門から数年、大相撲力士として大いに昇進した小錦は、かつての地蔵堂からお賽銭を借用した地方への巡業へと再び向かうこととなりました。この時の移動手段は人力車でしたが、小錦はかつての恩義を忘れることなく、あの地蔵堂へと立ち寄り、倍返し以上の出世払いをするのです。

そして明治27年(1896年)5月場所後に、小錦は晴れて横綱免許を授与され、第17代横綱となりました。素早い立会いと突き押しに俊敏な動きが得意な小錦は、小心者でもあることから、初日の敗戦が多くありました。

他の力士からは”小錦と当るなら初日”とも言われる反面、相撲振りと風貌から”荒れ狂う白象の如し”とも呼ばれ、多くのグッズが販売される人気者だったのです。幕内での成績は119勝24敗9分7預101休で、勝敗分中の勝率は7割8分3厘でした。

明治32年(1901年)1月場所をもって引退し、二十山部屋を創立した小錦は、大正3年(1914年)7月に亡くなった高砂親方の後を継ぐ予定でしたが、惜しくもその10月22日に自身も無くなり、高砂親方にはなれなかったのです。