大坂相撲の熊川熊次郎は、後に新選組となる壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の志士たちと乱闘事件を起こし、死亡しました。この年は将軍・徳川家茂が229年ぶりの上洛、朔平門外(さくへいもんがい)の変、下関事件勃発など、歴史的出来事が続いていたのです。

朔平門外の変は文久3年5月20日(1863年7月5日)に発生し、尊皇攘夷(そんのうじょうい)を唱える過激派公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも)が、薩摩藩士田中新兵衛によって暗殺されたものです。

下関事件とは、長州藩による攘夷行動に一つで、文久3年5月11日未明のアメリカ商船ペンブローク号への砲撃に始まります。23日にはフランス通報艦キャンシャン号、26日にオランダ東洋艦隊所属メデューサ号と砲撃を行なったのでした。

この事件からわずか数日後、志士と力士らの死傷事件が起こるのです。肥後国(現在の熊本県)で生まれた熊川は、大坂相撲の小野川部屋の所属しており、事件の時の地位は、中頭(大坂相撲の関取)か前頭7枚目であったようです。

文久3年6月3日(1863年7月18日)のこと、熊川ら大坂相撲の力士たちは、北新地において酒を飲んでいました。一方、京都の壬生浪士組の初代筆頭局長・芹沢鴨(せりざわかも)らは、大坂で遊ぼうと淀川を下って北新地へとやって来ます。

この二組が北新地の往来で出くわすこととなり、道を譲る譲らないで争いになります。あまり定かなことではないのですが、争いの中で芹沢が力士を鉄扇で打擲するか、刀で浅傷を負わす(斬殺したとも)という行動に出てしまうのです。

この芹沢の行動が引き金となって、道を譲る譲らないの争いは大乱闘へと発展、いくら力自慢の力士たちとはいえ刀を差した志士たちとは素手で戦い続けることはできないのか、その場は一旦は治まったようです。

志士たちは芹沢の他、山南(やまなみ)敬助・沖田総司・平山五郎・野口健司・永倉新八・島田魁・斎藤一ら全8人(これに井上源三郎・原田左之助を加えて10人もいたとも)、乱闘後に住吉楼(吉田屋とも)で遊び始めます。

一旦は拳を引っ込めた熊川でしたが、どうにも腹の虫が治まらなかったのでしょう。小野川部屋の力士たちを引き連れ、手には角材を携えて、大挙住吉楼へと乗り込んでいったのです。

襲いかかる熊川の角材を沖田が受け止めた隙に、芹沢が熊川の脇腹に突きを見舞います。また、熊川の傷は沖田と永倉によって斬られたものだとも言われますが、いずれにしても翌日、熊川は出血多量で亡くなったのでした。

この事件での死者は5人とも言われ、死んだとされる熊川がその後行われた本場所の番付に載っているなど、この事件の詳細と熊川の経歴には不明な部分が多いのですが、かなり大変な騒ぎであったことは想像に難くありません。

事件の手打ちとして、京都での相撲興行の際は、壬生浪士組と親しい京都相撲と大坂相撲が共同で行なったのでした。

なおこの時の志士側のリーダー芹沢は、何の因果か約3ヶ月後の文久3年9月16日(1863年10月28日)に、対立する派閥の土方(ひじかた)歳三らに奇襲を受け、討死・粛清されています。そして、芹沢一派である平山も同時に粛清され、野口は同年12月27日に切腹させられています。

今も昔も、酒を飲んでの暴力沙汰には、最終的にうれしくない結末が訪れるのです。