巨漢の力士・雷電爲右エ門(らいでんためえもん)は、あまりに強すぎて「禁じ手」を作られたという逸話を残しています。それほど強いのに何故か横綱免許は与えられなかったのは、土俵上で対戦相手を殺してしまったからだという講談ネタがあるくらいです。

明和4年(1767年)1月、信濃国(現在の長野県・岐阜県の一部)で生まれた関太郎吉(後の雷電)は、幼少の頃から立派な体格をしていて、14~15才には6尺(182センチくらい)にも達していたと言います。

ある日の事、太郎吉は庭先で風呂桶に入っていた母を、突然の雷雨から守るために、風呂桶ごと母を担ぎ上げて土間に入れたと言います。そして、13才になった時には小諸の城下町に出稼ぎに行き、精米所での奉公をしたのですが、その仕事ぶりと怪力が評判になり、相撲修行の話が出たのでした。

またある時は、太郎吉が碓氷峠を荷馬を引いて通っていたところ、大名行列を行き違うことになりました。道幅は狭く、行くも戻るもできない状況で、やむなく太郎吉は自分が引いていた荷馬を担ぎ上げて、なんとか大名行列を通したのです。

天明元年(1781年)4月、太郎吉は上原道場に入門して相撲の稽古の他、読み書きそろばんを習い、長昌寺の監峰和尚の下で厳しい修業にも励みました。天明3年(1783年)になって未曾有の飢饉が発生すると、各地で行われていた相撲巡業も運営が難しくなっていました。

上原道場の上原家と親交の深い浦風部屋(昭和37年まで存在)では、行き詰った北陸巡業から道場へと転がり込んで、翌年の春まで力仕事の手伝いと慰安相撲の開催で糊口を凌いでいました。こうしたこともあって、太郎吉は関取衆から稽古をつけてもらうこととなり、天明4年(1784年)秋に力士となるため上京するのです。

太郎吉に力士になることを勧めた浦風親方でしたが、すぐには初土俵は踏ませず、徹底的に稽古でその素質を開花させることにするのです。そして、横綱二代目谷風の所属する伊勢ノ海部屋へと入門させ、谷風の内弟子としました。

やがて、寛政元年(1789年)大坂相撲7月場所で雷電として初土俵を踏み、翌年には江戸相撲へ移りその11月場所で関脇付出で幕内デビューを果たします。この場所の雷電の成績は優勝相当で、8日目の横綱小野川との対戦は大”物言い”となり、結局勝敗は”預り”となったのでした。

ちなみに”物言い”とは、大相撲においては土俵上の審判である行司の勝敗の判定に対して、土俵周りで見ている勝負審判・控え力士が異議を申し立てることです。そして”預り”というのは引分の一種で、物言いの付いた取組などに対して決着を付けず、行司又は勝負審判が”預かり置く”というものです。

雷電の生涯成績は254勝10敗2分14預5無41休で、勝敗分中の勝率で9割5分5厘という、最強力士の横綱二代目谷川を優に超えるものでした。敗れた数もわずかに10回と、谷川と小野川よりも少ないものなのです。

こんなに強い雷電ですから、講談話などで語られている有名な話に、あまりに強さに対して、突っ張り・張り手・閂(かんぬき)・鯖折りの4つの技が禁じられたというのがあります。閂は相手の両腕を外側から抑えるもので、鯖折りは強く抱きしめて上からのしかかるというものです。

雷電は八角政右エ門と言う力士と対戦した際、この閂を使い八角の腕をへし折ってしまったというすごい話も伝わっています。また、鯖折りという業に関しては現代においても危険技という考え方があり、小中学生などの相撲大会では禁止となることが多いのです。

雷電は、文政8年2月21日(1825年4月9日)に亡くなりました。