第19代横綱・常陸山谷右エ門(ひたちやま たにえもん)は、武士の家に生まれたこともあって、”力士は侍である”という思いが強く、大相撲に「武士道」を導入して国技として存在に押し上げ、”角聖”と呼ばれるまでになりました。

明治7年(1874年)1月19日、現在の横綱稀勢の里・大関高安を擁して相撲強国である茨城県に、旧水戸藩士の市毛高成の長男として谷(後に谷右衛門)が生まれます。そして、小学生の時には子供相撲で西大関を務めたりしました。

谷が中学生の頃、河川運送業と倉庫業を経営していた父・高成が、荷主から預かった商品を騙し取られた責任でこれを弁償、会社は倒産してしまいました。そのため、谷は水戸中学校を中退し、東京にいる叔父・内藤高治(ないとうたかはる)を頼って上京するのです。

東京専門学校(後の早稲田大学)に入るべく、猛勉強をする谷は、北辰一刀流の剣豪としても知られた叔父から、剣道の指導も受けていました。そんなある時、谷は叔父の竹刀を打ち落とすこともあって、その怪力ぶりを発揮してもいたのです。

内藤が谷の怪力を試そうとして、亀戸天神の太鼓橋にあった20貫(75kg)ほどもある”力石”を担ぐように言うと、谷は簡単にそれを頭上高く持ち上げてしまいました。更に40貫(150kg)と58貫(217.5kg)ほどの力石は、肩に担ぎ上げたと言います。

明治23年(1890年)1月、後に初の相撲常設館”両国国技館(初代)”が建設されることになる回向院の本場所で、谷は野州山孝市(やしゅうざんこういち)の付けていた象牙彫刻が素晴らしい大煙草入れを見て、即座に相撲部屋への入門を決意しました。

谷の入門先は叔父からの紹介で、同郷の4代目出羽ノ海(後に常陸山虎吉)を頼って入間川部屋となります。初土俵は明治25年(1892年)6月場所、四股名は水戸の偉人・徳川光圀の隠居地の西山に因んで、「御西山」としました。

明治27年(1894年)1月、師匠となっていた出羽ノ海の現役時代の四股名「常陸山」に改名した御西山は、師匠の姪との交際が破談となったことから出羽ノ海部屋に居づらくなります。そんなおり、神戸巡業の際に立ち寄った居酒屋で、高砂部屋の三段目・鬼ヶ島に唆されて、東京相撲から脱走したのでした。

その後は、名古屋相撲・大坂相撲・広島相撲と渡り歩き、東京脱走の一因でもあった借金の精算ができたことから、明治30年(1897年)にようやく東京相撲へと戻ることが叶います。

この後常陸山は、明治32年(1899年)1月新入幕、2年後に関脇・大関と昇進を続け、明治36年(1903年)5月場所では、綱取りをかけた2代目梅ヶ谷藤太郎との全勝対決を制して、横綱免許を手に入れるのでした。

梅ヶ谷も後に横綱となり、「梅常陸時代」という相撲黄金時代を築いた常陸山は、現役時代から武家出身という身の上からか、”力士は侍である”という考えを持って、常にその品位向上に努めていました。

そのため、力士が御贔屓筋の酒杯を受けるために桟敷席を回ることを撤廃したり、相撲普及のために本場所を休んでまでアメリカへ渡り、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの前で横綱土俵入りを披露するなどの活動をしているのです。

大正3年(1914年)6月場所をもって引退した常陸山は、相撲協会の取締役としても手腕を発揮し、力士の地位向上に多くの功績を上げ、大相撲に「武士道」を取り入れて、国技と呼ばれるまでにし、”角聖”の異名を与えられました。