初代西ノ海嘉治郎(にしのうみかじろう)は、取組直前であっても平気で寝ていたという、並外れた”大物”でした。そのためかどうか、新大関が2人誕生した場所で3番目の地位に甘んじることを嫌った彼を、初めて番付上で横綱としたのです。

安政2年1月3日(1855年2月19日)、薩摩国高城郡(現在の鹿児島県薩摩川内市)の農家に小園(おぞの)嘉次郎は生まれました。彼は子供時代に土地相撲で活躍し、やがて京都相撲の鯨波部屋に入門し、小結まで昇進をします。

明治14年(1881年)、角界の改革を目指して東京相撲会所を脱退して組織されていた高砂改正組の巡業に参加した嘉次郎は、東京の高砂部屋に入門することとなり、翌年1月場所への初土俵を踏みます。この時の地位は幕内付出で、四股名は「西の海」となりました。

明治15年(1882年)6月場所になって、西の海は「西ノ海嘉次郎」と四股名を改称し、18年1月には大関へと昇進するのです。その後、負け越してはいないにも関わらず、興行上の都合によって小結へと番付を落とすことになります。

いくら小結に陥落したからとは言っても、やはり力士としての西ノ海の実力は顕著で、明治23年(1890年)1月には再び大関に復活、場所後には横綱の免許も授与されることとなったのでした。

そしてその年の5月場所のこと、新たに初代小錦八十吉と大鳴門灘右衛門が大関に昇進することとなり、前場所の成績から東西の正大関の座を占めることとなります。そのため、西ノ海は余儀なく3番目の地位として張出大関とされてしまったのです。

横綱免許を持つ西ノ海にとって、新米大関の下位に位置することは耐えられないことだったのでしょう。この番付に不満を表明した西ノ海に対して、協会側は相撲史上初めて番付に”横綱”と記載することとし、横綱が名誉的な免許から番付上の地位として確立する道筋を付けました。

協会に対してはっきりと不満を表明する西ノ海は、かなりの強い精神力を持った”大物”だったようで、見た目も堅太りで筋骨隆々、性格は豪放磊落だったのです。その逸話として、強豪との取組直前であっても支度部屋で高いびきをかいて眠っていたというものがあります。

幕内での成績は127勝37敗25分4預97休で、勝敗分中の勝率は6割7分2厘とそこそこの強さでありましたが、同部屋の大達羽左エ門(おおだてうざえもん)・一ノ矢藤太郎(いちのやとうたろう)と合わせて「高砂三羽烏」と呼ばれ、一時代を築いたのでした。

明治29年(1896年)1月を持って西ノ海は引退し、現在まで続く井筒部屋の親方となります。そして、二代目西ノ海嘉治郎・駒ヶ嶽國力・大江山松太郎・逆鉾与治郎などの多くの名力士を育て上げたのです。

こうして、鹿児島出身の井筒親方の下には、同郷の多くの力士の卵が集まりました。そして第16代(番付初の)横綱であった親方は、明治41年(1908年)11月30日にその生涯を終えるのでした。