小野川喜三郎は、二代目谷風と同日に横綱免許を授与され、谷風の連勝をストップするなど非常に強く、現在では「大相撲史上最強のナンバー2」と評価されています。しかし、谷風・雷電といった強豪に対抗するため、作戦的立会いも多く、江戸の庶民にはあまり人気がなかったのです。

宝暦8年(1758年)、近江国京町(現在の滋賀県大津市)で生まれた川村喜三郎は、年寄・初代小野川(才助)の養子となり、安永5年(1776年)に大阪相撲で初土俵を踏みます。谷風に遅れること生れが8年、初土俵が7年でした。

安永8年(1779年)、江戸相撲に合流した小野川は久留米藩(現在の福岡県久留米市)のお抱え力士となり、天明4年(1784年)3月場所で新小結、同年11月場所で新関脇、寛政2年(1790年)3月場所で新大関と着々と昇進を重ねます。

この時代の大相撲最高位は大関で横綱という地位はありませんでしたが、寛政元年10月3日(1789年11月19日)になって、ついに横綱の免許を谷風と共に授与されます。この時の小野川と谷風の地位は最高位の大関ではなく、なんとまだ関脇だったといいます。

この11月場所での成績は、小野川が8勝1分1預、谷風が6勝1分3休とどちらも負け無しという強さで、どちらかというと小野川の方が強いくらいでしょうか。この後、二人同時に翌年3月場所で、最高位の大関に昇進したのでした。

生涯成績は、幕内23場所で144勝13敗4分10預3無40休と、勝敗分中の勝率8割9分4厘という限りなく谷風の成績に迫るものです。体格と筋力では谷川に劣る小野川としては、実に立派な成績と言えるでしょう。

身長176センチ・体重135キロの小野川は、身長189センチ・体重169キロの谷川と、身長197センチ・体重170キロの雷電ら巨漢に対抗するため、慎重な取り口と技巧を駆使して闘ったのです。その立会いの多くは極めて作戦的で、江戸の庶民の受けは芳しくなく、あまり人気を得ることはできませんでした。

寛政3年6月11日(1791年7月11日)、江戸幕府第11代征夷大将軍・徳川家斉が上覧相撲を行なって、谷風・小野川の熱戦を楽しむなど、寛政時代は大相撲の大繁栄期となりました。こうして、大相撲史上最強のナンバー2・小野川は、大相撲人気を大いに沸かせ、寛政9年(1797年)10月場所をもって引退をします。

文化3年3月12日(1806年4月30日)、谷風に遅れること11年で小野川が無くなり、横綱経験者がまったくいない状況となります。この横綱(経験者)不在の状態は、文政11年(1828年)に阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)が第6代横綱になるまで22年、横綱自体は30年近くも続いたのでした。

ちなみに、江戸時代から昭和初期にかけての最強力士10人(横綱9・大関1)を、「古今十傑(ここんじっけつ)」と呼びます。その10人とは、二代目谷川・小野川・雷電に加え、稲妻雷五郎・陣幕久五郎・初代梅ヶ谷藤太郎・常陸山谷右エ門・太刀山峯右エ門・栃木山守也・双葉山定次の力士たちです。