大相撲の力士も労働者ということなのか、東京相撲では力士の退職金倍増要求で、「三河島事件」という騒擾事件が勃発したことがあります。力士側は関脇・太刀光電右エ門(たちひかりでんえもん)らが代表となり、大日本相撲協会と対峙したのです。

大正12年(1923年)1月9日、力士生活の向上のため力士らが協会へ提言をする組織「力士会」が、力士養老金(退職金)の倍増を協会へと要求しました。大日本相撲協会としてはこの要求を却下するのですが、納得しない関脇以下の力士たちは、東京三河島の向上に立てこもって、その場所をボイコットしたのです。

11日、春場所開催に不安を募らせる幕下力士が、年寄・浅香山(元前頭八嶌山平八郎=やしまやまへいはちろう)と年寄・千賀ノ浦(元関脇綾川五郎次=あやがわごろうじ)に、”明日の相撲は本場所であるか花相撲であるか”と質問をしたと言います。

この時の年寄の答えは、”花相撲ではない。立派な本場所で諸君たちは大事な中堅力士である”というものでした。そのようなやり取りがあって、12日に協会側はボイコットに参加していない力士だけでの春場所開催を強行するのです。

この時の協会側の関取は、第26代横綱・大錦卯一郎(おおにしきういちろう)、第27代横綱・栃木山守也(とちぎやま もりや)以下、わずかに7名だけでした。関取の数が少なすぎるため、春場所は関取の取組は行わず、横綱と大関は土俵入りのみとし、関脇以下の関取は不出場としました。

つまり、観覧できる相撲は幕下以下の下位力士によるものだけであったため、結局は興行の行き詰まりを見るのでした。

どうにか興行を成り立たせたい協会側は、横綱・大関5名に最高位の行事「立行司」である木村庄之助(きむらしょうのすけ)・式守伊之助(しきもりいのすけ)の2名を加えた計7名で、立てこもる力士たちとの調停にあたらせます。

しかし、太刀光ら8名の力士代表たちの主張とは相いれず、調停は失敗してしまいます。その後、警視総監の赤池濃(あかいけあつし)が調停を担当し、警視総監に結論を一任するという形で、なんとか春場所の開催ができることとなりました。

18日の深夜に警視庁で手打ち式が行われたのですが、横綱大錦は騒動の鎮静化を見たうえで、力士の証である自分の髷を切って、廃業によって責任をとってしまうのでした。

この大錦という横綱は非常に真面目な性格の人物で、稽古熱心で”頭脳で取る”と言われるほど合理的な取り口の力士でした。葉巻を吸う喫煙者ではあったものの、酒・女などの遊びはせず、年寄の権威や情の入った相撲などに批判的な、曲がったことが嫌いを絵に描いたような人だったのです。

そのためか、三河島事件で責任を取って力士を辞めた後は角界には残らず、築地で「細川旅館」を経営し、早稲田大学政治経済学部へ入学、大学卒業後には報知新聞で相撲評論家をやったり、武道家中山博道の道場「有信館」へと入門し、剣道を学んだりしたのでした。

どうにか、大いに混乱した騒動も決着し、1週間の稽古日を設けた後、1月26日を「返り初日」として春場所は開催されました。なお、この場所の初日の横綱土俵入りは前代未聞の事態となり、横綱土俵入りの従者を同じ横綱の常ノ花と栃木山が務めるということになったのでした。

最終的な力士側の要求に対しては、3月6日に妥結し、退職金の増額分については、それまでの1場所10日の興行日を11日として、その1日の増収分をあてることとしました。