大相撲史上最強の力士と言われているのは、二代目谷風梶之助で、昨今でも話題となる”兄弟力士”でもあったのです。谷風は第4代横綱となり、その力量と品格は抜群で、力士名である四股名(しこな)の”谷風”は「止め名」(野球で言う永久欠番)とされました。

寛延3年8月8日(1750年9月8日)、仙台藩(現在の宮城県・他数県の一部)に生まれた金子与四郎は、明和5年(1768年)に伊勢ヶ浜部屋に入門し”秀の山”という四股名を名乗りました。翌年4月場所では伊達関森右エ門(だてがせきもりえもん・後に達ヶ関)と改名し、看板大関として初土俵を踏みます。

明和7年(1770年)11月場所では一旦番付を下げ、前頭筆頭からのやり直しでしたが、安永5年(1776年)10月場所にあたって、同郷の大関だった力士の四股名を名乗り、二代目谷風梶之助となったのです。ちなみに、初代谷風は讃岐高松藩(現在の香川県)に仕えたことから、「讃岐の谷風」として区別されます。

与四郎に遅れること6年、腹違いの与八が誕生します。この弟は伊勢ノ海部屋に入門し、初土俵は三段目からスタートし、四股名は兄と同じ達ヶ関森右エ門となっていることから、兄が二代目谷風に改名した頃(1776年)の入門と考えられます。

天明元年(1781年)3月場所後、四股名に値する大関へと昇進した谷風は、天明4年には江戸相撲の浦風与八が見出した雷電爲右エ門(大相撲史上未曾有の最強力士)を弟子として、後身の育成にも力を入れ始めます。

安永7年(1778年)3月場所初日に勝利した谷風は、天明2年(1782年)2月場所中日に小野川喜三郎(後の第5代横綱)に敗れるまで、63連勝という偉業を達成するのでした。実際には、引分や休場も間に挟んではいますが、これは江戸本場所だけの成績で、京都・大阪の勝ち星を加えるとなんと98連勝にもなるのです。

谷風の強さはその生涯成績に表れていて、258勝14敗16分16預5無112休という勝敗分中の勝率がほぼ9割に近いものでした。ちなみに、最高位前頭筆頭だった弟達ヶ関の生涯成績は62勝58敗32分16預10無45休で、勝敗分中の勝率は4割ちょっとという至って普通のものでした。

それにしても兄弟幕内力士というのは、谷風・達ヶ関で大相撲史上二組目のめずらしいことで、これ以降は昭和の若貴兄弟(若乃花幹士・貴ノ花利彰)まで現われることはありませんでした。ちなみに、貴ノ花の息子たちが平成の若貴兄弟(若乃花勝・貴乃花光司)となって一大ブームを巻き起こしています。

さて、谷風は寛政元年10月3日(1789年11月19日)になって、ついに横綱の免許を小野川と共に授与されます。横綱としては4代目とはされていますが、3代目までの横綱は記録がはっきりしていないことから、実質的には谷川が初代横綱とも言えるのです。

谷川はその戦績から四股名を「止め名」とされるほどの力量を持っているばかりでなく、色白・切れ長の目・柔和な容貌と見た目も良く、人格者として横綱の品格は世間に知れ渡っていたといいます。

その横綱の品格を伝える作り話として、「佐野山」という落語があります。これは、病気の母を抱える十両の佐野山のために、本来ではありえない懸賞付きの取組を行ない、今では八百長とされるようなわざと負けてやることしたり、病気で伏している佐野山の母の枕元で、病魔退散の四股を踏んだというものです。

寛政7年1月9日(1795年2月27日)、江戸全域で大流行していたインフルエンザは、35連勝中だった谷風にも襲いかかり、さしもの大相撲史上最強の力士を死に至らしめたのでした。