第20代横綱・二代目梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう)は、節分の”豆まき”の際、決して「鬼は外」とは言わなかったそうです。その理由というのは、若い頃に指導を受けた元小結・鬼ヶ谷才治(おにがたにさいじ)を思ってのことだったのでしょう。

明治11年(1878年)3月11日、”富山の薬売り”の四男として押田音次郎(おしだおとじろう)は生まれました。後に横綱・二代目梅ヶ谷となり、”ヒキガエル”の愛称でも呼ばれた人物です。

明治24年(1891年)のこと、初代西ノ海(第16代横綱)や二代目劔山(最高位大関)らが富山巡業にやって来た時、劔山が体格の良い音次郎少年に目を付け、大相撲への勧誘を行って、雷(いかずち)部屋へと入門させたのです。音次郎はこの際、師匠の養子となり、小江音松(おえおとまつ)と改名しています。

雷親方(第15代横綱)の現役時代の四股名が「梅ヶ谷」だったことから、四股名を「梅ノ谷音松」として、さっそく入門の1月場所に初土俵を踏むこととなります。梅ノ谷への指導は、特に兄弟子の鬼ヶ谷才治(おにがたにさいじ)が熱心で、三段目になる頃には単独での土俵入りが許されるまでに成長していました。

また、錦絵が発売されたり、幕下以下であるのに横綱土俵入りの稽古をするなど、梅ノ谷の素質を見込んだ英才教育は、現在では考えられないものだったのです。かつて類を見ない稽古の成果もあって、梅ノ谷は明治31年(1898年)1月場所で新入幕を果たしました。

梅ノ谷の体型は所謂「あんこ型」という、誰もが”相撲取り”をイメージする昔ながらの肉付きが良く丸いものでした。その取り口は、出っ張った腹を巧みに利用した理詰めのものでしたが、反面横方向からの攻めには弱く、自分の弱点克服に努力していたといいます。

近年の「あんこ型」力士としては、引退した中では北の湖(きたのうみ)・6代目小錦(こにしき)・水戸泉(みといずみ)・隆の里(たかのさと)・大乃国(おおのくに)など、現役では臥牙丸(ががまる)・逸ノ城(いちのじょう)・千代丸(ちよまる)などが有名です。

梅ノ谷は新入幕の場所で、初代小錦八十吉(第17代横綱)に勝利し、同じ年の5月場所でも再び小錦を負かしてしまいます。そんな「小錦キラー」は、翌年1月には小結、5月には関脇と昇進、一旦は勝ち越ししたにも関わらず小結に陥落するものの、明治33年(1900年)1月には一気に大関へと昇進を果たしました。

大関昇進が決定した梅ノ谷は、師匠の現役時代の四股名「梅ヶ谷藤太郎」の継承を願い出ます。しかし、それは時期尚早と考えた師匠は、”いま(梅ヶ谷)を襲名したら横綱になった時に何を名乗る”のかとその時は認めませんでした。

梅ノ谷は、明治35年(1902年)1月になって、ようやく二代目「梅ヶ谷藤太郎」を襲名します。その横綱名に負けず立派な成績を上げていき、翌年5月の常陸山との全勝対決を認められ、6月になってついに横綱免許を授与されることとなったのです。

ここまでに成長できたのは、何と言っても兄弟子・鬼ヶ谷から付けてもらった稽古のおかげでしょう。その思いもあってか、梅ヶ谷は節分の豆まきの時には、「福は内」だけを言って、決して「鬼は外」とは言わなかったのです。

当時としては、24才6ヶ月での横綱昇進は、最年少記録となりました。横綱土俵入りには、「攻防兼備の型」とされる、せり上がるときに左手を胸の近くに当てて右手を伸ばす「雲龍型」を選択し、現在まで続く雲龍型土俵入りの開祖でもあります。