第18代横綱・大砲万右エ門(おおづつまんえもん)は、絵に描いたような不器用で自分で動き回っては失敗し、史上空前の引き分けの多さから「分け綱」と呼ばれたのです。

明治2年11月28日(1869年12月30日)、大砲は角田県刈田郡(現在の宮城県白石市)に角張萬次(かくばりまんじ)として誕生しました。時代は明治維新が始まったとされる慶応3年(1867年)のすぐ後で、以降は廃藩置県・学制改革・地租改正・徴兵令発布・西南戦争など、世の中はザワついていたのです。

幼い頃の萬次は大柄で力が強く、13才の時には四斗俵を左右に軽々下げて歩いていたと言います。彼の噂はすぐに広まり、伊勢ノ海部屋にいた元力士の夫人が聞きつけて、尾車部屋への入門を橋渡ししたのでした。

明治17年(1884年)5月場所で、萬次は四股名「三沢滝」で初土俵、4年後に「大砲」に改名します。そして明治25年(1892年)に新入幕を果たすものの、成績は3勝6敗とその地位での実力を思い知らされました。

ところが運というものは面白いもので、他の力士の成績との兼ね合いもあってか、負け越しにも関わらず次の場所には小結へと昇進してしまうのです。その7年後には大関まで昇進を果たし、その地位で無敗を続け、明治34年(1901年)5月ついに横綱免許を得たのでした。

大砲の体格は197センチ・134キロという、昭和61年(1986年)に北尾光司(第60代横綱双羽黒)が現われるまで破られることの無かったほどの、史上最長身の大柄でした。取り口は強い突っ張り、それができなければ右四つで左手を取るという万全の体勢で負け知らずでした。

しかし大砲には、史上最長身の巨体が災いしてその動きは鈍く、下手に動くと取り口に失敗して負けてしまうという不器用さがありました。”横綱は負けてはいけない”という年寄・雷(いかづち・第15代横綱梅ヶ谷)の言葉を受けて、大砲は”勝たないといけない”とは考えず、不器用にも引き分けるという方法を選んだようです。

大砲の幕内での成績は98勝29敗51分4預138休で、勝敗分中の勝率は5割5分1厘と、横綱にしてはとても低いレベルです。それよりも引分の割合が2割8分7厘、横綱時代では4割ほどにもなる断トツの高さを誇り、付いたあだ名が「分け綱」というどうにも不名誉なものでした。

引分に関する大砲の成績には、明治40年(1907年)5月場所の”9戦全分”という、「分け綱」というあだ名にも頷ける非常に珍しい記録を残しています。実は、”横綱は負けてはいけない”と言った年寄・雷自身も、(1880年)1月場所で”4分6休”という横綱らしからぬ記録を残していました。

また、休場の日数も138日と異様に多いのが目立ちますが、これは陸軍の砲兵に志願して入隊するため、明治36年(1903年)の5月場所から3場所続けて全休し、除隊後も持病のリウマチが悪化したことなどが原因のようです。

結局、明治41年(1908年)1月場所もって大砲は引退し、待乳山部屋の経営にあたります。そして、大正7年(1918年)5月27日、背中の腫物を手術した後に糖尿病となり亡くくなりました。