Authorbluefish2017

「力士は侍」として【武士道】を導入し”角聖”となった常陸山

第19代横綱・常陸山谷右エ門(ひたちやま たにえもん)は、武士の家に生まれたこともあって、”力士は侍である”という思いが強く、大相撲に「武士道」を導入して国技として存在に押し上げ、”角聖”と呼ばれるまでになりました。

明治7年(1874年)1月19日、現在の横綱稀勢の里・大関高安を擁して相撲強国である茨城県に、旧水戸藩士の市毛高成の長男として谷(後に谷右衛門)が生まれます。そして、小学生の時には子供相撲で西大関を務めたりしました。

谷が中学生の頃、河川運送業と倉庫業を経営していた父・高成が、荷主から預かった商品を騙し取られた責任でこれを弁償、会社は倒産してしまいました。そのため、谷は水戸中学校を中退し、東京にいる叔父・内藤高治(ないとうたかはる)を頼って上京するのです。

東京専門学校(後の早稲田大学)に入るべく、猛勉強をする谷は、北辰一刀流の剣豪としても知られた叔父から、剣道の指導も受けていました。そんなある時、谷は叔父の竹刀を打ち落とすこともあって、その怪力ぶりを発揮してもいたのです。

内藤が谷の怪力を試そうとして、亀戸天神の太鼓橋にあった20貫(75kg)ほどもある”力石”を担ぐように言うと、谷は簡単にそれを頭上高く持ち上げてしまいました。更に40貫(150kg)と58貫(217.5kg)ほどの力石は、肩に担ぎ上げたと言います。

明治23年(1890年)1月、後に初の相撲常設館”両国国技館(初代)”が建設されることになる回向院の本場所で、谷は野州山孝市(やしゅうざんこういち)の付けていた象牙彫刻が素晴らしい大煙草入れを見て、即座に相撲部屋への入門を決意しました。

谷の入門先は叔父からの紹介で、同郷の4代目出羽ノ海(後に常陸山虎吉)を頼って入間川部屋となります。初土俵は明治25年(1892年)6月場所、四股名は水戸の偉人・徳川光圀の隠居地の西山に因んで、「御西山」としました。

明治27年(1894年)1月、師匠となっていた出羽ノ海の現役時代の四股名「常陸山」に改名した御西山は、師匠の姪との交際が破談となったことから出羽ノ海部屋に居づらくなります。そんなおり、神戸巡業の際に立ち寄った居酒屋で、高砂部屋の三段目・鬼ヶ島に唆されて、東京相撲から脱走したのでした。

その後は、名古屋相撲・大坂相撲・広島相撲と渡り歩き、東京脱走の一因でもあった借金の精算ができたことから、明治30年(1897年)にようやく東京相撲へと戻ることが叶います。

この後常陸山は、明治32年(1899年)1月新入幕、2年後に関脇・大関と昇進を続け、明治36年(1903年)5月場所では、綱取りをかけた2代目梅ヶ谷藤太郎との全勝対決を制して、横綱免許を手に入れるのでした。

梅ヶ谷も後に横綱となり、「梅常陸時代」という相撲黄金時代を築いた常陸山は、現役時代から武家出身という身の上からか、”力士は侍である”という考えを持って、常にその品位向上に努めていました。

そのため、力士が御贔屓筋の酒杯を受けるために桟敷席を回ることを撤廃したり、相撲普及のために本場所を休んでまでアメリカへ渡り、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの前で横綱土俵入りを披露するなどの活動をしているのです。

大正3年(1914年)6月場所をもって引退した常陸山は、相撲協会の取締役としても手腕を発揮し、力士の地位向上に多くの功績を上げ、大相撲に「武士道」を取り入れて、国技と呼ばれるまでにし、”角聖”の異名を与えられました。

巨漢の力士・雷電はあまりに強すぎて【禁じ手】を作られた!

巨漢の力士・雷電爲右エ門(らいでんためえもん)は、あまりに強すぎて「禁じ手」を作られたという逸話を残しています。それほど強いのに何故か横綱免許は与えられなかったのは、土俵上で対戦相手を殺してしまったからだという講談ネタがあるくらいです。

明和4年(1767年)1月、信濃国(現在の長野県・岐阜県の一部)で生まれた関太郎吉(後の雷電)は、幼少の頃から立派な体格をしていて、14~15才には6尺(182センチくらい)にも達していたと言います。

ある日の事、太郎吉は庭先で風呂桶に入っていた母を、突然の雷雨から守るために、風呂桶ごと母を担ぎ上げて土間に入れたと言います。そして、13才になった時には小諸の城下町に出稼ぎに行き、精米所での奉公をしたのですが、その仕事ぶりと怪力が評判になり、相撲修行の話が出たのでした。

またある時は、太郎吉が碓氷峠を荷馬を引いて通っていたところ、大名行列を行き違うことになりました。道幅は狭く、行くも戻るもできない状況で、やむなく太郎吉は自分が引いていた荷馬を担ぎ上げて、なんとか大名行列を通したのです。

天明元年(1781年)4月、太郎吉は上原道場に入門して相撲の稽古の他、読み書きそろばんを習い、長昌寺の監峰和尚の下で厳しい修業にも励みました。天明3年(1783年)になって未曾有の飢饉が発生すると、各地で行われていた相撲巡業も運営が難しくなっていました。

上原道場の上原家と親交の深い浦風部屋(昭和37年まで存在)では、行き詰った北陸巡業から道場へと転がり込んで、翌年の春まで力仕事の手伝いと慰安相撲の開催で糊口を凌いでいました。こうしたこともあって、太郎吉は関取衆から稽古をつけてもらうこととなり、天明4年(1784年)秋に力士となるため上京するのです。

太郎吉に力士になることを勧めた浦風親方でしたが、すぐには初土俵は踏ませず、徹底的に稽古でその素質を開花させることにするのです。そして、横綱二代目谷風の所属する伊勢ノ海部屋へと入門させ、谷風の内弟子としました。

やがて、寛政元年(1789年)大坂相撲7月場所で雷電として初土俵を踏み、翌年には江戸相撲へ移りその11月場所で関脇付出で幕内デビューを果たします。この場所の雷電の成績は優勝相当で、8日目の横綱小野川との対戦は大”物言い”となり、結局勝敗は”預り”となったのでした。

ちなみに”物言い”とは、大相撲においては土俵上の審判である行司の勝敗の判定に対して、土俵周りで見ている勝負審判・控え力士が異議を申し立てることです。そして”預り”というのは引分の一種で、物言いの付いた取組などに対して決着を付けず、行司又は勝負審判が”預かり置く”というものです。

雷電の生涯成績は254勝10敗2分14預5無41休で、勝敗分中の勝率で9割5分5厘という、最強力士の横綱二代目谷川を優に超えるものでした。敗れた数もわずかに10回と、谷川と小野川よりも少ないものなのです。

こんなに強い雷電ですから、講談話などで語られている有名な話に、あまりに強さに対して、突っ張り・張り手・閂(かんぬき)・鯖折りの4つの技が禁じられたというのがあります。閂は相手の両腕を外側から抑えるもので、鯖折りは強く抱きしめて上からのしかかるというものです。

雷電は八角政右エ門と言う力士と対戦した際、この閂を使い八角の腕をへし折ってしまったというすごい話も伝わっています。また、鯖折りという業に関しては現代においても危険技という考え方があり、小中学生などの相撲大会では禁止となることが多いのです。

雷電は、文政8年2月21日(1825年4月9日)に亡くなりました。

【番付初の横綱】初代西ノ海は取組直前でも平気で寝ていた!

初代西ノ海嘉治郎(にしのうみかじろう)は、取組直前であっても平気で寝ていたという、並外れた”大物”でした。そのためかどうか、新大関が2人誕生した場所で3番目の地位に甘んじることを嫌った彼を、初めて番付上で横綱としたのです。

安政2年1月3日(1855年2月19日)、薩摩国高城郡(現在の鹿児島県薩摩川内市)の農家に小園(おぞの)嘉次郎は生まれました。彼は子供時代に土地相撲で活躍し、やがて京都相撲の鯨波部屋に入門し、小結まで昇進をします。

明治14年(1881年)、角界の改革を目指して東京相撲会所を脱退して組織されていた高砂改正組の巡業に参加した嘉次郎は、東京の高砂部屋に入門することとなり、翌年1月場所への初土俵を踏みます。この時の地位は幕内付出で、四股名は「西の海」となりました。

明治15年(1882年)6月場所になって、西の海は「西ノ海嘉次郎」と四股名を改称し、18年1月には大関へと昇進するのです。その後、負け越してはいないにも関わらず、興行上の都合によって小結へと番付を落とすことになります。

いくら小結に陥落したからとは言っても、やはり力士としての西ノ海の実力は顕著で、明治23年(1890年)1月には再び大関に復活、場所後には横綱の免許も授与されることとなったのでした。

そしてその年の5月場所のこと、新たに初代小錦八十吉と大鳴門灘右衛門が大関に昇進することとなり、前場所の成績から東西の正大関の座を占めることとなります。そのため、西ノ海は余儀なく3番目の地位として張出大関とされてしまったのです。

横綱免許を持つ西ノ海にとって、新米大関の下位に位置することは耐えられないことだったのでしょう。この番付に不満を表明した西ノ海に対して、協会側は相撲史上初めて番付に”横綱”と記載することとし、横綱が名誉的な免許から番付上の地位として確立する道筋を付けました。

協会に対してはっきりと不満を表明する西ノ海は、かなりの強い精神力を持った”大物”だったようで、見た目も堅太りで筋骨隆々、性格は豪放磊落だったのです。その逸話として、強豪との取組直前であっても支度部屋で高いびきをかいて眠っていたというものがあります。

幕内での成績は127勝37敗25分4預97休で、勝敗分中の勝率は6割7分2厘とそこそこの強さでありましたが、同部屋の大達羽左エ門(おおだてうざえもん)・一ノ矢藤太郎(いちのやとうたろう)と合わせて「高砂三羽烏」と呼ばれ、一時代を築いたのでした。

明治29年(1896年)1月を持って西ノ海は引退し、現在まで続く井筒部屋の親方となります。そして、二代目西ノ海嘉治郎・駒ヶ嶽國力・大江山松太郎・逆鉾与治郎などの多くの名力士を育て上げたのです。

こうして、鹿児島出身の井筒親方の下には、同郷の多くの力士の卵が集まりました。そして第16代(番付初の)横綱であった親方は、明治41年(1908年)11月30日にその生涯を終えるのでした。

作戦的立会いで人気の無かった小野川は【史上最強のNo.2】

小野川喜三郎は、二代目谷風と同日に横綱免許を授与され、谷風の連勝をストップするなど非常に強く、現在では「大相撲史上最強のナンバー2」と評価されています。しかし、谷風・雷電といった強豪に対抗するため、作戦的立会いも多く、江戸の庶民にはあまり人気がなかったのです。

宝暦8年(1758年)、近江国京町(現在の滋賀県大津市)で生まれた川村喜三郎は、年寄・初代小野川(才助)の養子となり、安永5年(1776年)に大阪相撲で初土俵を踏みます。谷風に遅れること生れが8年、初土俵が7年でした。

安永8年(1779年)、江戸相撲に合流した小野川は久留米藩(現在の福岡県久留米市)のお抱え力士となり、天明4年(1784年)3月場所で新小結、同年11月場所で新関脇、寛政2年(1790年)3月場所で新大関と着々と昇進を重ねます。

この時代の大相撲最高位は大関で横綱という地位はありませんでしたが、寛政元年10月3日(1789年11月19日)になって、ついに横綱の免許を谷風と共に授与されます。この時の小野川と谷風の地位は最高位の大関ではなく、なんとまだ関脇だったといいます。

この11月場所での成績は、小野川が8勝1分1預、谷風が6勝1分3休とどちらも負け無しという強さで、どちらかというと小野川の方が強いくらいでしょうか。この後、二人同時に翌年3月場所で、最高位の大関に昇進したのでした。

生涯成績は、幕内23場所で144勝13敗4分10預3無40休と、勝敗分中の勝率8割9分4厘という限りなく谷風の成績に迫るものです。体格と筋力では谷川に劣る小野川としては、実に立派な成績と言えるでしょう。

身長176センチ・体重135キロの小野川は、身長189センチ・体重169キロの谷川と、身長197センチ・体重170キロの雷電ら巨漢に対抗するため、慎重な取り口と技巧を駆使して闘ったのです。その立会いの多くは極めて作戦的で、江戸の庶民の受けは芳しくなく、あまり人気を得ることはできませんでした。

寛政3年6月11日(1791年7月11日)、江戸幕府第11代征夷大将軍・徳川家斉が上覧相撲を行なって、谷風・小野川の熱戦を楽しむなど、寛政時代は大相撲の大繁栄期となりました。こうして、大相撲史上最強のナンバー2・小野川は、大相撲人気を大いに沸かせ、寛政9年(1797年)10月場所をもって引退をします。

文化3年3月12日(1806年4月30日)、谷風に遅れること11年で小野川が無くなり、横綱経験者がまったくいない状況となります。この横綱(経験者)不在の状態は、文政11年(1828年)に阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)が第6代横綱になるまで22年、横綱自体は30年近くも続いたのでした。

ちなみに、江戸時代から昭和初期にかけての最強力士10人(横綱9・大関1)を、「古今十傑(ここんじっけつ)」と呼びます。その10人とは、二代目谷川・小野川・雷電に加え、稲妻雷五郎・陣幕久五郎・初代梅ヶ谷藤太郎・常陸山谷右エ門・太刀山峯右エ門・栃木山守也・双葉山定次の力士たちです。

不器用で【分け綱】と呼ばれた史上空前の引き分け横綱・大砲

第18代横綱・大砲万右エ門(おおづつまんえもん)は、絵に描いたような不器用で自分で動き回っては失敗し、史上空前の引き分けの多さから「分け綱」と呼ばれたのです。

明治2年11月28日(1869年12月30日)、大砲は角田県刈田郡(現在の宮城県白石市)に角張萬次(かくばりまんじ)として誕生しました。時代は明治維新が始まったとされる慶応3年(1867年)のすぐ後で、以降は廃藩置県・学制改革・地租改正・徴兵令発布・西南戦争など、世の中はザワついていたのです。

幼い頃の萬次は大柄で力が強く、13才の時には四斗俵を左右に軽々下げて歩いていたと言います。彼の噂はすぐに広まり、伊勢ノ海部屋にいた元力士の夫人が聞きつけて、尾車部屋への入門を橋渡ししたのでした。

明治17年(1884年)5月場所で、萬次は四股名「三沢滝」で初土俵、4年後に「大砲」に改名します。そして明治25年(1892年)に新入幕を果たすものの、成績は3勝6敗とその地位での実力を思い知らされました。

ところが運というものは面白いもので、他の力士の成績との兼ね合いもあってか、負け越しにも関わらず次の場所には小結へと昇進してしまうのです。その7年後には大関まで昇進を果たし、その地位で無敗を続け、明治34年(1901年)5月ついに横綱免許を得たのでした。

大砲の体格は197センチ・134キロという、昭和61年(1986年)に北尾光司(第60代横綱双羽黒)が現われるまで破られることの無かったほどの、史上最長身の大柄でした。取り口は強い突っ張り、それができなければ右四つで左手を取るという万全の体勢で負け知らずでした。

しかし大砲には、史上最長身の巨体が災いしてその動きは鈍く、下手に動くと取り口に失敗して負けてしまうという不器用さがありました。”横綱は負けてはいけない”という年寄・雷(いかづち・第15代横綱梅ヶ谷)の言葉を受けて、大砲は”勝たないといけない”とは考えず、不器用にも引き分けるという方法を選んだようです。

大砲の幕内での成績は98勝29敗51分4預138休で、勝敗分中の勝率は5割5分1厘と、横綱にしてはとても低いレベルです。それよりも引分の割合が2割8分7厘、横綱時代では4割ほどにもなる断トツの高さを誇り、付いたあだ名が「分け綱」というどうにも不名誉なものでした。

引分に関する大砲の成績には、明治40年(1907年)5月場所の”9戦全分”という、「分け綱」というあだ名にも頷ける非常に珍しい記録を残しています。実は、”横綱は負けてはいけない”と言った年寄・雷自身も、(1880年)1月場所で”4分6休”という横綱らしからぬ記録を残していました。

また、休場の日数も138日と異様に多いのが目立ちますが、これは陸軍の砲兵に志願して入隊するため、明治36年(1903年)の5月場所から3場所続けて全休し、除隊後も持病のリウマチが悪化したことなどが原因のようです。

結局、明治41年(1908年)1月場所もって大砲は引退し、待乳山部屋の経営にあたります。そして、大正7年(1918年)5月27日、背中の腫物を手術した後に糖尿病となり亡くくなりました。

【大相撲常設館】は大酒豪力士によって建設された!

相撲史上初となる「大相撲常設館=両国国技館(初代)」は、第15代横綱で大酒豪力士でもある初代梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう)によって建設されたと言っても過言ではありません。

弘化2年2月9日(1845年3月16日)、筑前国(現在の福岡県西部)上座郡志波村梅ヶ谷に、小江藤太郎(おえとうたろう)として梅ヶ谷は生まれました。大物には大物なりの逸話があるもので、この藤太郎も赤子の頃から石臼を引きずったり、母乳やお菓子よりもお酒を欲しがったと言われています。

そんな大物ゆえに、早くも7才にして大坂相撲に引き取られることとなり、梅ヶ枝を四股名とするのです。そして、湊部屋へと入門することとなり、四股名を故郷の地名に因んで、梅ヶ谷としました。

明治2年(1869年)3月場所で小結として新入幕を果たした梅ヶ谷は、大坂で大関に昇進した後、翌年には東京相撲へと進出して行きます。東京では玉垣部屋に所属しましたが、東京相撲の大坂力士への対応は冷たく、初めはなんと番付外の本中(現在の前相撲)デビューだったのでした。

大坂で最高位の大関であった梅ヶ谷のことですから、下位での取組は敵知らずで連戦連勝し、明治7年(1874年)12月場所で新入幕を果たします。西前頭6枚目でのその星勘定は8勝1敗1休と、優勝相当の好成績となりました。

明治9年(1876年)10月24日、福岡県の興行に参加していた梅ヶ谷は、旧秋月藩士族が明治政府に対して起こした反乱「秋月の乱」に遭遇します。この時梅ヶ谷は、まったく動じることなく、乱の平定に活躍したのでした。

明治10年(1877年)6場所には小結、12月場所で関脇として全勝という成績を残した梅ヶ谷は、翌年1月場所では大関となります。そして、明治11年(1880年)5月場所でも全勝とし、この時期(明治9~12年)に58連勝という記録を残しました。

明治17年(1884年)2月、ついに横綱免許の授与となり、3月には明治天皇の天覧相撲が行われ、梅ヶ谷は後に初代総理大臣となる伊藤博文が用意してくれたまわしを付けて土俵入りをしたのです。この時、明治天皇の所望で行なった取組は、大熱戦の末に引分となり、天皇を大いに喜ばせ、相撲人気も再び上がったのです。

梅ヶ谷はこの翌年の5月場所を持って引退することとなり、年寄・雷(いかづち)となります。彼の東京相撲での幕内成績は116勝6敗18分2預78休と、勝敗分中の勝率8割2分9厘という、充分に横綱に相応しいものでした。

単に強いだけの力士ではなかった梅ヶ谷は、人望も非常に厚い人物で、人並みはずれた信用があったという逸話が残っているのです。

明治37年(1904年)にそれまでその都度場所を確保して行なわれていた大相撲興行のために、常設館を建設しようという計画が持ち上がったのです。しかし、常設館の建設には多大な費用がかかります。

この時、東京相撲を主催する「東京大角力協会」の要職にあった梅ヶ谷(雷)は、大相撲常設館の建設費用として、自分の信用だけを担保に当時の40万円(現在では百万円相当)という大金を借りる事に成功したのです。貸付主は、安田銀行本所支店長の飯島保篤でした。

こうして、明治39年(1906年)6月着工、42年5月竣工、6月2日に初の大相撲常設館「両国国技館」の開館式が行われたのです。この初代国技館は本所回向院の境内にあり、建設費用の貸付主の銀行支店との関わりも窺われます。

昭和3年(1928年)6月15日、一斗酒の酒豪とも言われ、「大雷」の尊称を贈られ、大相撲常設館を建設したにも等しい大力士は、横綱の長寿記録を残して亡くなりました。

二代目梅ヶ谷が【豆まき】で「鬼は外」とは言わなかった理由

第20代横綱・二代目梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう)は、節分の”豆まき”の際、決して「鬼は外」とは言わなかったそうです。その理由というのは、若い頃に指導を受けた元小結・鬼ヶ谷才治(おにがたにさいじ)を思ってのことだったのでしょう。

明治11年(1878年)3月11日、”富山の薬売り”の四男として押田音次郎(おしだおとじろう)は生まれました。後に横綱・二代目梅ヶ谷となり、”ヒキガエル”の愛称でも呼ばれた人物です。

明治24年(1891年)のこと、初代西ノ海(第16代横綱)や二代目劔山(最高位大関)らが富山巡業にやって来た時、劔山が体格の良い音次郎少年に目を付け、大相撲への勧誘を行って、雷(いかずち)部屋へと入門させたのです。音次郎はこの際、師匠の養子となり、小江音松(おえおとまつ)と改名しています。

雷親方(第15代横綱)の現役時代の四股名が「梅ヶ谷」だったことから、四股名を「梅ノ谷音松」として、さっそく入門の1月場所に初土俵を踏むこととなります。梅ノ谷への指導は、特に兄弟子の鬼ヶ谷才治(おにがたにさいじ)が熱心で、三段目になる頃には単独での土俵入りが許されるまでに成長していました。

また、錦絵が発売されたり、幕下以下であるのに横綱土俵入りの稽古をするなど、梅ノ谷の素質を見込んだ英才教育は、現在では考えられないものだったのです。かつて類を見ない稽古の成果もあって、梅ノ谷は明治31年(1898年)1月場所で新入幕を果たしました。

梅ノ谷の体型は所謂「あんこ型」という、誰もが”相撲取り”をイメージする昔ながらの肉付きが良く丸いものでした。その取り口は、出っ張った腹を巧みに利用した理詰めのものでしたが、反面横方向からの攻めには弱く、自分の弱点克服に努力していたといいます。

近年の「あんこ型」力士としては、引退した中では北の湖(きたのうみ)・6代目小錦(こにしき)・水戸泉(みといずみ)・隆の里(たかのさと)・大乃国(おおのくに)など、現役では臥牙丸(ががまる)・逸ノ城(いちのじょう)・千代丸(ちよまる)などが有名です。

梅ノ谷は新入幕の場所で、初代小錦八十吉(第17代横綱)に勝利し、同じ年の5月場所でも再び小錦を負かしてしまいます。そんな「小錦キラー」は、翌年1月には小結、5月には関脇と昇進、一旦は勝ち越ししたにも関わらず小結に陥落するものの、明治33年(1900年)1月には一気に大関へと昇進を果たしました。

大関昇進が決定した梅ノ谷は、師匠の現役時代の四股名「梅ヶ谷藤太郎」の継承を願い出ます。しかし、それは時期尚早と考えた師匠は、”いま(梅ヶ谷)を襲名したら横綱になった時に何を名乗る”のかとその時は認めませんでした。

梅ノ谷は、明治35年(1902年)1月になって、ようやく二代目「梅ヶ谷藤太郎」を襲名します。その横綱名に負けず立派な成績を上げていき、翌年5月の常陸山との全勝対決を認められ、6月になってついに横綱免許を授与されることとなったのです。

ここまでに成長できたのは、何と言っても兄弟子・鬼ヶ谷から付けてもらった稽古のおかげでしょう。その思いもあってか、梅ヶ谷は節分の豆まきの時には、「福は内」だけを言って、決して「鬼は外」とは言わなかったのです。

当時としては、24才6ヶ月での横綱昇進は、最年少記録となりました。横綱土俵入りには、「攻防兼備の型」とされる、せり上がるときに左手を胸の近くに当てて右手を伸ばす「雲龍型」を選択し、現在まで続く雲龍型土俵入りの開祖でもあります。

横綱の力量・品格が抜群の【史上最強の力士】谷風は兄弟力士

大相撲史上最強の力士と言われているのは、二代目谷風梶之助で、昨今でも話題となる”兄弟力士”でもあったのです。谷風は第4代横綱となり、その力量と品格は抜群で、力士名である四股名(しこな)の”谷風”は「止め名」(野球で言う永久欠番)とされました。

寛延3年8月8日(1750年9月8日)、仙台藩(現在の宮城県・他数県の一部)に生まれた金子与四郎は、明和5年(1768年)に伊勢ヶ浜部屋に入門し”秀の山”という四股名を名乗りました。翌年4月場所では伊達関森右エ門(だてがせきもりえもん・後に達ヶ関)と改名し、看板大関として初土俵を踏みます。

明和7年(1770年)11月場所では一旦番付を下げ、前頭筆頭からのやり直しでしたが、安永5年(1776年)10月場所にあたって、同郷の大関だった力士の四股名を名乗り、二代目谷風梶之助となったのです。ちなみに、初代谷風は讃岐高松藩(現在の香川県)に仕えたことから、「讃岐の谷風」として区別されます。

与四郎に遅れること6年、腹違いの与八が誕生します。この弟は伊勢ノ海部屋に入門し、初土俵は三段目からスタートし、四股名は兄と同じ達ヶ関森右エ門となっていることから、兄が二代目谷風に改名した頃(1776年)の入門と考えられます。

天明元年(1781年)3月場所後、四股名に値する大関へと昇進した谷風は、天明4年には江戸相撲の浦風与八が見出した雷電爲右エ門(大相撲史上未曾有の最強力士)を弟子として、後身の育成にも力を入れ始めます。

安永7年(1778年)3月場所初日に勝利した谷風は、天明2年(1782年)2月場所中日に小野川喜三郎(後の第5代横綱)に敗れるまで、63連勝という偉業を達成するのでした。実際には、引分や休場も間に挟んではいますが、これは江戸本場所だけの成績で、京都・大阪の勝ち星を加えるとなんと98連勝にもなるのです。

谷風の強さはその生涯成績に表れていて、258勝14敗16分16預5無112休という勝敗分中の勝率がほぼ9割に近いものでした。ちなみに、最高位前頭筆頭だった弟達ヶ関の生涯成績は62勝58敗32分16預10無45休で、勝敗分中の勝率は4割ちょっとという至って普通のものでした。

それにしても兄弟幕内力士というのは、谷風・達ヶ関で大相撲史上二組目のめずらしいことで、これ以降は昭和の若貴兄弟(若乃花幹士・貴ノ花利彰)まで現われることはありませんでした。ちなみに、貴ノ花の息子たちが平成の若貴兄弟(若乃花勝・貴乃花光司)となって一大ブームを巻き起こしています。

さて、谷風は寛政元年10月3日(1789年11月19日)になって、ついに横綱の免許を小野川と共に授与されます。横綱としては4代目とはされていますが、3代目までの横綱は記録がはっきりしていないことから、実質的には谷川が初代横綱とも言えるのです。

谷川はその戦績から四股名を「止め名」とされるほどの力量を持っているばかりでなく、色白・切れ長の目・柔和な容貌と見た目も良く、人格者として横綱の品格は世間に知れ渡っていたといいます。

その横綱の品格を伝える作り話として、「佐野山」という落語があります。これは、病気の母を抱える十両の佐野山のために、本来ではありえない懸賞付きの取組を行ない、今では八百長とされるようなわざと負けてやることしたり、病気で伏している佐野山の母の枕元で、病魔退散の四股を踏んだというものです。

寛政7年1月9日(1795年2月27日)、江戸全域で大流行していたインフルエンザは、35連勝中だった谷風にも襲いかかり、さしもの大相撲史上最強の力士を死に至らしめたのでした。

大坂相撲の熊川は後の【新選組】志士と乱闘の上死亡した!

大坂相撲の熊川熊次郎は、後に新選組となる壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の志士たちと乱闘事件を起こし、死亡しました。この年は将軍・徳川家茂が229年ぶりの上洛、朔平門外(さくへいもんがい)の変、下関事件勃発など、歴史的出来事が続いていたのです。

朔平門外の変は文久3年5月20日(1863年7月5日)に発生し、尊皇攘夷(そんのうじょうい)を唱える過激派公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも)が、薩摩藩士田中新兵衛によって暗殺されたものです。

下関事件とは、長州藩による攘夷行動に一つで、文久3年5月11日未明のアメリカ商船ペンブローク号への砲撃に始まります。23日にはフランス通報艦キャンシャン号、26日にオランダ東洋艦隊所属メデューサ号と砲撃を行なったのでした。

この事件からわずか数日後、志士と力士らの死傷事件が起こるのです。肥後国(現在の熊本県)で生まれた熊川は、大坂相撲の小野川部屋の所属しており、事件の時の地位は、中頭(大坂相撲の関取)か前頭7枚目であったようです。

文久3年6月3日(1863年7月18日)のこと、熊川ら大坂相撲の力士たちは、北新地において酒を飲んでいました。一方、京都の壬生浪士組の初代筆頭局長・芹沢鴨(せりざわかも)らは、大坂で遊ぼうと淀川を下って北新地へとやって来ます。

この二組が北新地の往来で出くわすこととなり、道を譲る譲らないで争いになります。あまり定かなことではないのですが、争いの中で芹沢が力士を鉄扇で打擲するか、刀で浅傷を負わす(斬殺したとも)という行動に出てしまうのです。

この芹沢の行動が引き金となって、道を譲る譲らないの争いは大乱闘へと発展、いくら力自慢の力士たちとはいえ刀を差した志士たちとは素手で戦い続けることはできないのか、その場は一旦は治まったようです。

志士たちは芹沢の他、山南(やまなみ)敬助・沖田総司・平山五郎・野口健司・永倉新八・島田魁・斎藤一ら全8人(これに井上源三郎・原田左之助を加えて10人もいたとも)、乱闘後に住吉楼(吉田屋とも)で遊び始めます。

一旦は拳を引っ込めた熊川でしたが、どうにも腹の虫が治まらなかったのでしょう。小野川部屋の力士たちを引き連れ、手には角材を携えて、大挙住吉楼へと乗り込んでいったのです。

襲いかかる熊川の角材を沖田が受け止めた隙に、芹沢が熊川の脇腹に突きを見舞います。また、熊川の傷は沖田と永倉によって斬られたものだとも言われますが、いずれにしても翌日、熊川は出血多量で亡くなったのでした。

この事件での死者は5人とも言われ、死んだとされる熊川がその後行われた本場所の番付に載っているなど、この事件の詳細と熊川の経歴には不明な部分が多いのですが、かなり大変な騒ぎであったことは想像に難くありません。

事件の手打ちとして、京都での相撲興行の際は、壬生浪士組と親しい京都相撲と大坂相撲が共同で行なったのでした。

なおこの時の志士側のリーダー芹沢は、何の因果か約3ヶ月後の文久3年9月16日(1863年10月28日)に、対立する派閥の土方(ひじかた)歳三らに奇襲を受け、討死・粛清されています。そして、芹沢一派である平山も同時に粛清され、野口は同年12月27日に切腹させられています。

今も昔も、酒を飲んでの暴力沙汰には、最終的にうれしくない結末が訪れるのです。

【巡業】途中でお腹の空いた初代小錦は地蔵堂のお金を拝借した!

初代小錦八十吉(こにしきやそきち)は、地方巡業へ向かう途中でお腹が空いたものの無一文で、地蔵堂の前にあったお金を出世払いで拝借したという面白い力士です。色白で童顔の彼は、錦絵や織物などの今でいうグッズが飛ぶように売れた人気者でした。

慶応2年10月15日(1866年11月21日)、上総国(現在の千葉県)の料理屋「岩城屋」の主人に子供が生まれました。その子の名は岩井八十吉で、父親は土地相撲で「岩城川」という四股名で大関まで務めた人でした。

息子の八十吉をどうしても力士にしたいものだと考えていた元大関岩城川は、明治14年(1881年)のある日、佐倉(千葉県北部)に巡業に来ていた土地相撲の仲間の高見山宗五郎(たかみやまそうごろう・当時の四股名は響矢)に頼み込んで、高砂部屋へと入門させます。

ところが大相撲の部屋での稽古は過酷なもので、八十吉はその厳しさに耐えられずに故郷に逃げ帰ってしまいます。しかし、逃げ帰った自分を叱咤激励する父の姿に、八十吉は再び大相撲へ挑戦する決意をするのでした。

明治16年(1883年)5月場所で四股名「小錦」として初土俵を踏んだ八十吉ですが、その夏、東京の部屋から栃木県まで、巡業のために歩いて向かうことになりました。彼の体格は168センチ・143キロ・BMI50.47と言われており、歩くには股擦れが酷くて、痛みのために同部屋力士たちからどんどん遅れていきます。

そして、お腹が空いてきたものの、出がけの早朝に小遣い銭を餅を買うのに使ってしまったため、全くの無一文です。更に仲間にも置いて行かれて、お金を借りることもできないのです。

途方に暮れた小錦は、やがて地蔵堂の前にお金が供えられているのを見つけます。空腹で我慢しきれない小錦は、地蔵堂に手を合わせて、昇進して倍返しすると出世払いを約束して、お賽銭を拝借したのでした。

地蔵堂のお金を握りしめた小錦は、そのお金で近くにあった駄菓子屋で煎餅を買って食べ、まだ足りなかったのか桶の水をがぶ飲みするという有様です。それでもまだ空腹は続いたのか、勝手に畑に入ってトウモロコシを食べて、今度は小川の水を飲んだり、途中の茶店の老人から麦飯を御馳走にもなったのでした。

明治19年(1888年)5月場所に小錦は新入幕を果たし、そこから4年間で39連勝と7回の優勝相当成績を上げるという強さを発揮しました。年齢的には21~24才という、正に脂の乗り切った時期のことでした。

入門から数年、大相撲力士として大いに昇進した小錦は、かつての地蔵堂からお賽銭を借用した地方への巡業へと再び向かうこととなりました。この時の移動手段は人力車でしたが、小錦はかつての恩義を忘れることなく、あの地蔵堂へと立ち寄り、倍返し以上の出世払いをするのです。

そして明治27年(1896年)5月場所後に、小錦は晴れて横綱免許を授与され、第17代横綱となりました。素早い立会いと突き押しに俊敏な動きが得意な小錦は、小心者でもあることから、初日の敗戦が多くありました。

他の力士からは”小錦と当るなら初日”とも言われる反面、相撲振りと風貌から”荒れ狂う白象の如し”とも呼ばれ、多くのグッズが販売される人気者だったのです。幕内での成績は119勝24敗9分7預101休で、勝敗分中の勝率は7割8分3厘でした。

明治32年(1901年)1月場所をもって引退し、二十山部屋を創立した小錦は、大正3年(1914年)7月に亡くなった高砂親方の後を継ぐ予定でしたが、惜しくもその10月22日に自身も無くなり、高砂親方にはなれなかったのです。

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