相撲は日本平定する際の神々の戦いが始まりだった!

日本の相撲の始まりは、最古の歴史書『古事記』に記録されている、日本=葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の時の、、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の戦いにあります。

皇室の祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)から葦原中国平定に派遣された建御雷は、出雲(いずも・現在の島根県東部)に降り立ち、その地を治める大国主神(おおくにぬしのかみ)に国譲りを要求します。

大国主が子らにその対応を任せたところ、事代主神(ことしろぬしのかみ)は服従し、建御名方神(たけみなかたのかみ)は建御雷に力比べを持ちかけるのです。建御名方は即座に建御雷の腕を掴んで投げようと試みました。

建御雷は自分の手を氷柱(つらら)に、更に剣(つるぎ)へと変化させて、建御名方の攻撃をかわします。そして、反撃に出た建御雷は建御名方の手を葦(あし)のごとく握りつぶしてしまい、初めての相撲の取組みに勝利したのです。

人間同士が行った初めての相撲は、垂仁天皇7年7月7日(紀元前23年8月26日)に行われました。土師氏の祖・野見宿禰(のみのすくね)を出雲から呼び寄せた垂仁天皇が、大和国の当麻邑(たいまのむら・現奈良県葛城市當麻)の強力を誇る当麻蹴速(たいまのけはや)と取組ませたのです。

この時の相撲技は蹴り技の応酬が主で、最終的に野見宿禰が当麻蹴速の脇骨を蹴り折った上、更に踏みつけて腰骨を折り絶命させてしまったのでした。この頃の相撲は武芸・武術であり、現在のものとはまったく違っていますが、対戦したこの二人は今では相撲の始祖として神様となっています。

日本古代の相撲の起源や初の人間同士の相撲対決から、皇室と相撲との関わりや、神事としての相撲の有り方が窺えます。その後相撲は、奈良・平安時代には宮中行事として行なわれるようになり、神社においては祭事として相撲をとる「神事相撲」が登場しました。

相撲から”大相撲”への発展と面白トピックスの数々

中世になると相撲は武士たちの実践的な鍛錬として広まり、「武家相撲」というものになります。これが、力士が髷(まげ)を結っていることとも繋がり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は大好きな相撲を、鎌倉を中心に数多く行ったと言います。

室町時代の応仁の乱で都落ちした貴族たちは、地方に京都の相撲文化を伝え、各地に相撲を職業にする者も現われ、「土地相撲(草相撲)」が広がります。そして、江戸時代になって民衆一般に広がり、興行主の元で行われる「勧進相撲」となっていきました。

明治時代ではやや伝統芸能に陰りが見られたものの、明治天皇による「天覧相撲」は続けられ、大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に天皇賜杯が下賜されるようになり、この年12月に大坂と東京の相撲組織が合併し、「大相撲」と呼ばれる現協会の前身「財団法人大日本相撲協会」が誕生しました。

相撲に関する歴史的で面白いトピックスとしては、「史上最強とNo.2の話」・「強すぎて”禁じ手”を設定された話」・「新撰組の前身の志士と争った話」・「大酒豪力士の話」・「番付初の横綱の話」・「巡業中の面白話」・「引分の多い力士の話」・「武士道を導入した話」・「豆まきに関する話」など色々あります。

【4連続金星】の大活躍!4横綱を4場所連続撃破した北勝富士

多くの名力士を生み出してきている大相撲では、平成に入ってからも多くの若手が上位を窺っています。その中の一人・北勝富士大輝(ほくとふじだいき)は、4横綱を4場所連続撃破するという、”4連続金星”の大活躍をしています。

平成4年7月15日、中村大輝は埼玉県所沢市に生まれました。後に御嶽海(みたけうみ)・宇良(うら)の平成4年生まれの若手力士と共に、「花のヨン組」と呼ばれることになる後の「北勝富士」のことです。

平成27年3月春場所、中村大輝は「大輝明道」として初土俵を踏みます。これはその当時「中村」という年寄名跡があり本名が名乗れなかったことと、後に四股名とする「北勝富士」という力士が他にいたからです。

翌場所5月の夏場所は、東序ノ口11枚目で6勝1敗の成績として、1場所で序ノ口を通過し、7月名古屋場所では序二段優勝を果たし、続く9月秋場所では三段目優勝を勝ち取り、いずれも7戦全勝で1場所で各段を通過しました。更に、11月九州場所で東幕下25枚目に付け、負け越し無しで幕下を4場所で通過しています。

平成28年7月名古屋場所、大輝は西十両13枚目に昇進し、次の9月秋場所では十両優勝を果たします。この十両の地位もわずか2場所で通過し、11月九州場所では「北勝富士」として、西前頭11枚目の土俵を務めたのでした。

この年の10月14日の秋巡業豊橋場所の朝稽古でのこと、当時大関だった照ノ富士の指名で”ぶつかり稽古”をした北勝富士は、通常は5分ほどで息が上がってしまうところ、13分にも渡って鍛えてもらい、終わってからは完全にグロッキーとなって、暫くは立ち上がれなかったと言います。

平成29年1月初場所、北勝富士は3日目に妙義龍を”押し倒し”で破ります。妙義龍は日体大の6学年先輩で、憧れの存在でもあって目標・理想とする力士だったことから、これで恩返しをしたということになるのです。

7月名古屋場所、第71代横綱鶴竜を破り、初めて金星(平幕=前頭が横綱に勝つこと)を勝ち取りました。取組は3日目のことで、決まり手は”押し出し”、勝ち残りで土俵下に座っている時には、何が何だか分からず目頭が熱くなったといいます。

続く9月秋場所では、第70代横綱日馬富士を破り、2場所連続金星を手にします。この場所では、左手首の負傷というアクシデントに見舞われ、7勝8敗と負け越しとなってはしまいますが、本人として”その中でよく7勝できたな”という思いだったのです。

そのまた次の11月九州場所では、第72代横綱稀勢の里を破り、3場所連続金星を上げ、初の三賞・技能賞を受賞しました。横綱との対戦は7日目でしたが、”寄り切り”という真向からの取り口で勝利し、”うれし涙は3個目だから、いいですよ”とコメントしています。

平成30年1月初場所、北勝富士は東前頭筆頭まで昇進しました。そして、第69代横綱白鵬も破り、4場所連続金星という輝かしい記録を打ち立てたのです。

但し、この場所の成績は白鵬への勝利以外にはあまりパッとしたところが無く、4勝11敗という初めての2桁黒星という結果でした。しかし、力量に優れた力士には運も味方するのか、翌場所3月春場所の番付では思ったほど降格はせず、西前頭6枚目での奮闘が見られるのです。

角界の闇の部分が噴出した数々の【不祥事】麻薬・賭博・八百長

21世紀に入って大相撲は、角界の闇の部分が噴出して、数々の”不祥事”が相次ぎました。大麻問題の責任を取って協会理事長が辞任したり、野球賭博問題や八百長問題がぞくぞくと発覚して、力士の本業の相撲に影響を及ぼしたのです。

大相撲の世界では、平成時代(1989年~)初期のハワイ出身力士の活躍も影を潜め、2000年代(平成12年~)も半ばになると今度はモンゴル出身力士が台頭し始めます。

第68代横綱・朝青龍(あさしょうりゅう)の年間全場所優勝、第69代横綱・白鵬(はくほう)の63連勝、続く第70・71代横綱も日馬富士(はるまふじ)・鶴竜(かくりゅう)といった具合です。

しかし、そんな外国勢の力を借りた相撲界に、暗雲が立ち込め始めるのです。始まりは、平成20年(2008年)の「大相撲力士大麻問題」でした。

6月24日のこと、ロシア出身の幕内力士・若ノ鵬(わかのほう)が、東京都墨田区錦糸町の路上で落とした財布の中に入っていたロシア製のたばこから大麻成分が検出されました。若ノ鵬は8月18日に逮捕され、所属する間垣部屋と自宅からは吸引パイプなども見つかり、21日の緊急理事会で解雇処分となります。

若ノ鵬の師匠である間垣親方(第56代横綱2代目若乃花)は、事件の責任を取って協会理事を辞職、若ノ鵬は解雇処分無効の訴訟を行なうものの、結局それは認められず、翌年2月にロシアへと帰国しました。

この事件には、更に関連した騒動が持ち上がっています。それは、若ノ鵬逮捕の翌月2日、抜き打ちで簡易的な尿検査を行なった際に、同じロシア出身で大嶽部屋の露鵬(ろほう)と北の湖部屋の白露山(はくろざん)にも陽性反応が出たのです。

結局、露鵬と白露山も訴訟にまで持ち込んだものの解雇、大嶽親方(元関脇貴闘力)は委員の身分からただの年寄に降格、北の湖親方(第55代横綱)は協会理事長を辞任することとなります。

大麻問題は、ロシア出身力士に限った話ではありません。平成21年(2009年)1月30日には、兵庫県出身の若麒麟が大麻所持で逮捕され、翌日付で引退届を提出、2月20日に起訴され、4月22日に有罪が確定しています。

平成22年(2010年)5月20日には、新たなる角界の不祥事として、野球賭博問題が取りざたされることととなります。

週刊誌記事によれば、大関琴光喜が暴力団が胴元のプロ野球賭博に関わっているとし、最終的に現役力士・親方・床山(力士の髷を結う職人)・元力士・部屋マネジャー・会社役員にまで広がっていることがわかりました。

協会では琴光喜と大嶽親方を解雇、当時前頭の雅山・豊ノ島・豪栄道・豊響・若荒雄・隠岐の海、十両の普天王・千代白鵬・清瀬海・大道、幕下以下の力士複数、親方の時津風・武蔵川・九重・陸奥・八角・阿武松・佐渡ヶ嶽・春日野・宮城野・木瀬など錚々たるメンバーを謹慎処分としたのです。

平成21年(2011年)2月2日、今度は八百長問題が表面化してきます。前年に発覚した野球賭博事件の捜査の途上、警視庁が押収した力士の携帯電話のデータの中から、金で本場所の白星(取組の勝利)を売買するやり取りが見つかったのです。

この問題を受けて、3月の春場所は中止となり、5月の夏場所は「5月技量審査場所」に変更し、無料公開で優勝額・外部表彰辞退・懸賞金辞退・着物への広告自粛・NHK地上波TV・ラジオ中継未実施・相撲案内所(相撲茶屋)休止・アルコール販売と持込禁止という処置となりました。

テレビCMでも大人気となった【初の外国人関取】高見山

”初の外国人関取”となった高見山大五郎(たかみやまだいごろう)は、多くのテレビCMに登場し、テレビドラマにも出演するなど大人気となりました。更に、”ジェシー”の愛称で親しまれ、その名を付けたレコードまで発売しています。

1944年(昭和19年)6月16日、まだ正式なアメリカの州にはなっていなかったハワイ準州のマウイ島に、ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルアは誕生しました。この日、アメリカ軍が中国大陸から北九州への初めての空襲を仕掛けていて、太平洋戦争の真っ只中にありました。

青少年時代のジェシーは、砲丸投げなどの投擲競技を経験したのちアメリカンフットボールに転向し、その体力・体格を作り上げていきます。高校時代のある日、交通事故にあってしまったジェシーは、その後1年もの間歩けなくなるという不幸に見舞われ、後遺症も残ってしまいました。

昭和39年(1964年)、ジェシーは5年間は衣食住を保障するとの約束で、4代目高砂親方(第39代横綱・前田山英五郎)から大相撲へとスカウトされ、2月22日に来日しました。南国のハワイで育ったジェシーは、羽田空港に降り立って初めての冬の寒さを体験し、”間違ってシベリアに来てしまった”と震え上がったと言います。

初土俵は昭和39年(1964年)3月の大坂場所での前相撲で、四股名は本名のまま「ジェシー」でした。翌場所5月の夏場所からは、四股名を初代高砂親方(高砂浦五郎)と、同部屋で初の優勝力士である髙見山酉之助に因んで、「高見山大五郎」としています。

高見山は、昭和39年の夏場所は西序ノ口11枚目で6勝1敗で優勝し、翌場所7月の名古屋場所では東序二段71枚目へ昇進、この場所は7戦全勝でやはり優勝、続く9月の秋場所では優勝とまでは行かなかったものの、5勝2敗の好成績で、三度たったの一場所で上位の段へと昇進を決めました。

ただ、入門から1年経ったときのこと、アメリカ人である高見山に力士生命の危機がやって来ます。その頃には10年にもなっていたベトナム戦争のため、徴兵検査を受けることとなったのですが、幸いにも高見山の当時160キロという巨漢が不合格の理由となりました。

「外国人」として注目を集めて、ここまで大活躍を見せていた高見山も、幕下ではようやくそれも影を潜め、相撲の成績も時々負越すこともあって、14場所を幕下で過ごすこととなります。そして、昭和42年(1967年)3月の春場所で新十両となり、初の外国人関取となったのです。

高見山人気の下地には、彼の日本人的な考え方があるのでしょう。十両昇進と同時に日本永住を決意し、好きな芸能人は勝新太郎、タイプの女性は園まり・吉永小百合で、ブリジッド・バルドーやエリザベス・テイラーは嫌いだったといいます。

その人気で多くのCMに出演し、師匠からは”CM横綱”と呼ばれたといいます。最も有名なCMと言えば、「マルハッチ!」・「二倍二倍!二枚二枚!」というものでしょう。これが子供から大人まで広がり、このCMセリフの声真似は高見山の物まねの定番となりました。

昭和47年(1972年)には、テレビドラマ「変身忍者 嵐」にゲスト出演し、昭和52年と54年には「スーパー・ジェシー」と「ジェシー・ザ・スーパーマン」というレコードを発売もしています。

そして、幕内で前頭を上下していた昭和55年(1980年)に日本国籍を取得し、夫人の姓と四股名から日本名(本名)を「渡辺大五郎」とし、昭和59年(1984年)5月の夏場所をもって現役を引退します。最高位は、昭和52年(1977年)11月の九州場所での東張出関脇でした。

超高額チケットが取引された大相撲ブーム【栃若時代】の熱狂

第44代横綱・栃錦清隆(とちにしききよたか)と第45代横綱・若乃花幹士(わかのはな かんじ)の33回の実戦は、超高額チケットが取引されるほどの、熱狂的な大相撲ブーム「栃若時代」を生み出しました。

大正14年(1925年)1月10日、東京の蛇の目傘を製造する家の次男として、大塚清(後の栃錦)が誕生しました。後に大相撲で「栃若時代」という黄金期を形成することになる、二人の勇者の内の一人です。

「栃若時代」のもう一方の雄・花田勝治(後の初代若乃花)は、昭和3年(1928年)3月16日、東北の北の外れの青森で、リンゴ園農家の1女10男の長男として誕生します。しかし、6年後に破産状態となった花田一家は、北海道室蘭への移住を余儀なくされたのでした。

並外れた体力と体格を持っていた大塚は、近所の八百屋の勧めなどで春日野部屋へと入門し、昭和14年(1939年)1月場所で初土俵を踏むこととなります。四股名は、師匠の現役名「栃木山」と、兄弟子で第26代横綱の大錦卯一郎から一字ずつもらって、「栃錦」としました。

一方、北海道で力仕事をして家計を支えていた花田は、昭和21年(1946年)の二所ノ関一門の地方巡業で、飛び入り参加した相撲大会で力士の数名を倒すという快挙を成し遂げています。そしてこのことがきっかけとなって、花田は二所ノ関部屋の大ノ海(後の11代目花籠親方)の内弟子として入門しました。

栃錦は、親方から”寝る時はエビのように小さくなって”、”飯を食うときは大きな体で”という指導を受け、序二段で一度だけ負越しただけで、昭和19年(1944年)5月場所で十両昇進を果たして、晴れて関取の仲間入りをしました。

しかし、世の中は第二次世界大戦の真っ只中で、戦況が厳しくなってきたことから、栃錦は終戦まで軍隊生活をおくることとなります。大相撲へと復帰できたのは、昭和20年(1945年)11月場所で、十両4枚目格として出場しました。

花田の方はというと、神風・力道山・佐賀ノ花・琴錦など何れ部屋を興そう考える兵たちの中、”二所一門の荒稽古”で力士としての力を上げていきます。ただ、後にプロレスへ転向する力道山の稽古には我慢しきれず、力道山の脛に噛みついたうえそのまま脱走、部屋近くの隅田川に飛び込んだこともありました。

四股名「若ノ花」で踏んだ花田の初土俵は、栃錦が十両に復帰してからちょうど1年後の昭和21年(1946年)11月場所でした。猛稽古のかいもあって、各段を優勝に準じるような成績で駆け上がり、栃錦に遅れること4年ほどの昭和24年(1949年)5月場所で、新十両となり関取の道を歩み出すのです。

新入幕は、栃錦が昭和22年(1947年)6月場所、若ノ花が2年半ほど遅れた昭和25年(1950年)1月場所と、着々と番付を上げていきます。そして、昭和29年(1954年)9月場所後に栃錦は第44代横綱となり、若ノ花から改名していた若乃花はその4年後の1月場所後に第45代横綱となったのです。

この時から「栃若時代」が始まったのですが、二人の実戦は昭和26年(1951年)5月場所から33回に上りました。対戦成績は、「栃若時代」以前では栃錦の14勝9敗でしたが、「栃若時代」に入ると後輩横綱の若乃花が6勝4敗と盛り返します。

栃若の対戦は大人気と呼び、ある時には30万円(2016年時点で200万円相当)の大枚をはたいて、ダフ屋から入場チケットを購入したという観客もあったと語り継がれています。

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